僕の山との馴れ初めを書いてきました。
過去記事を読むと、僕の青春時代が孤独を絵に描いたような人間に見えるかもしれませんね。
本当は孤独ではなかったのです。友人たちも大勢いました。特に中学時代は多くの活動のために勉強する時間が無いくらいでした。音楽の蓬田先生に誘われて合唱団に入れていただいたのが手始めで、新設のブラスバンド部にも誘っていただきました。当時の課題曲や練習曲は今でも口をついて出てきます。大変充実した日々でした。(後日談ですが、弟も妹も後を追うようにブラスバンドに入りました。) 僕のパートはバリトン。器楽もバリトンチューバでした。
仲間活動は遊び専門ですが大勢いました。
勢いに乗って、新聞部や放送部にも顔を出していました。放送部の仕事は主に放課後に音楽を流したりすること。新聞部は学級壁新聞作りです。壁新聞活動では毎週級友たちの家庭訪問をして記事にしたり、校内行事のことなどを書いて張り出していました。担任先生の検閲なしでです。おかげで当時の同級生たちの家は全て覚えてしまいました。
特に卒業間近になってからはガリ版の卒業文集作りに没頭したものです。級友たちから原稿をもらって、7割以上は僕がガリを切りました。僕は詩や俳句が得意だったので、他の人よりも一つ多く挿入する特権を享受しました。出来上がりは2センチ近い大作となりました。
このほかに、2年生からは朝の新聞配達のアルバイトをしました。最初は60軒くらい、3年生の時は120軒くらいでした。町内には新聞屋が2軒あって両方経験しました。朝寝坊もしゅっちゅうで、配達が遅れると登校時間に間に合わなくなって、学校の遅刻はほぼ毎日! 全校朝礼に間に合わずに後で校長室前に立たされる常連でした。新聞配達の収入は微々たるものでしたが、おかげで中学生新聞や子供用の英字新聞を購読したり、手作りラジオの制作や歌手養成通信講座、はやりの速記術なども学ぶことができたのです!
こんな僕にも一つのトピックがありました。親友でクラスの秀才佐藤君を生徒会長に祭り上げたことです。3年生になって生徒会長選びが始まったときに、僕の提案で彼を推すことに決定!僕は全校生1200人の前で応援演説をしました。応援の内容は彼の性格や容貌を貶すような内容を話したのですが、前の方にしか聞こえない声で話したので前列は爆笑ものでしたが、最後列の先生からは「聞こえないぞ!」とヤジも飛びました。流石に最後はビシって決めた甲斐あって、佐藤君は生徒会長に選ばれたのです。
僕は友達活動が忙しくて、予習復習や塾の経験はありません。一度先生から「予習をすればもっと成績が上がる」と言われて予習して行ったら授業がつまらなくなってそれ以来しないのでした。進学指導の時に先生が「もっと勉強すれば福島の学校に行っても良い」と指導を受けたのですが、とうとう地元で家の隣の川俣高校に行くことになったのです。
高校に行ってからは、友達はみんな別々の高校に入ったのですが、数人とは川俣町にいる間ずっと交換日記を回しあったものです。
中学時代は超忙しく過ぎて行きました。
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