http://www.kanekashi.com/blog/2021/10/8861.html#more
より転載します。
第二次世界大戦・ナチスの黒幕はスイスの金貸しだった!
金貸しは常に黒幕にいる。
このブログのタイトル「金貸しは、国家を相手に金を貸す」のように金貸しは国家に金を貸し、世界を裏から動かしている。
コロナ・インフレ主導勢力が、中央銀行・国債経済を破綻させなければならない理由
では、コロナやインフレ騒動の背後で、スイス金融奥の院が動いていることを述べた。
彼らは決して表舞台に表れることが無いが、歴史上重要な事件の背後に黒幕として存在していることが多い。
第二次世界大戦はその一つだ。
その証拠に以下のポイントが上げられる。
・ナチスドイツに金を貸すスイス金融奥の院(各国の中央銀行の代表たちは容認)
・スイス金融奥の院の援助無しにナチスドイツの戦争遂行能力の維持は不可能だった。
・ユダヤ(ロスチャイルド)を迫害、標的にし金を強奪→スイスの金庫へ
・ナチスドイツ滅亡後もスイス金融奥の院は現在にまで存在し、BIS規制など金融のカギを握っている。
ヘブライの館(client.jp)より以下転載します。
—————————-前略—————————-
◆第2章:ナチス御用達の銀行だったスイスの銀行
・「スイス銀行によるナチス政権への財政的援助がなかったら第二次世界大戦は数年早く終息していたであろう」と指摘する人がいる。実際、ナチスの戦争遂行能力の維持に、スイスほど大きな貢献を果たした“中立国”はなかった。
・第一次世界大戦で敗れたドイツの戦争賠償処理を主目的として、1930年にニューヨーク連邦準備銀行をはじめとする世界中の中央銀行が集まって、スイスのバーゼルに「BIS(国際決済銀行)」が設立された。
しかしこの銀行は、ヒトラーの政権掌握以降、アメリカとイギリスの資金がヒトラーの金庫に流入する窓口の役目を果たすようになり、正反対の機能を持つ銀行になった。BISは積極的にドイツへの融資を仲介し、その再軍備を大いに支え、ヒトラーの戦争経済に協力し、必要な財源確保に加担したのである。
第一次世界大戦後、ドイツの賠償問題処理のために
1930年にスイスに設立された「BIS(国際決済銀行)」第二次世界大戦中、ヨーロッパ諸国間の金融取引は、金と中立国スイスの通貨であるスイスフランが唯一の決算手段として使われていたため、ナチス・ドイツは征服した国々から金を略奪し、「スイス国立銀行」にあるBIS名義の口座に送り込むようになった。
BISや「スイス国立銀行」にとっても、ドイツとの金取引は魅力があり、取り引きは盛んに行われた。戦場では敵味方に分かれて戦っているにもかかわらず、各国の中央銀行の代表たちは、BISがドイツとの取り引きを続けることを容認し続けたのだった。
ジョン・フォスター・ダレス
「BIS(国際決済銀行)」の創立者の1人として活躍した。
ロックフェラー家の一員で、戦後はアメリカ国務長官を務めた。・BISの初代総裁には、ロックフェラー財閥系の「チェース・ナショナル銀行」の元頭取で、「連邦準備銀行」総裁のマッギャラーが就任した。その後1938年に総裁に就任したアメリカのモルガン財閥の一員であったマッキトリックは、1940年初め「ドイツ国立銀行」を訪れ、BISの役員兼ゲシュタポ高級将校のシュローダー男爵と会談、たとえアメリカとドイツが交戦しても制約なしにBISを存続させ、機能させることに合意したのであった。
イギリスはドイツと交戦状態に入った後でさえ、BISの存続を承認し、イギリス側役員のニーマイアー卿と「イングランド銀行」総裁ノーマンは戦争が終わるまでその地位にとどまっている。
BISの理事の何人かはナチスの人間だったが、スイスは1942年夏以降、保護を求めて流入するユダヤ難民に対してほぼ完全に門戸を閉ざしておきながら、「ドイツ国立銀行」副総裁兼BIS理事だったエミール・プールなどのナチス財務高官たちにはフリー・パスを与えていたのだった。
・1943年5月19日に、『ニューヨーク・タイムズ』紙は次のような一文を載せた。
「スイスのバーゼルにある国際決済銀行(BIS)では、連合国のスイス、スウェーデン、アメリカと、枢軸国のドイツ、イタリアの銀行家たちが、机を並べて仕事をしている。この戦争の中で敵味方が共同事業を行っているのは筋の通らぬことではないか。一体どのような暗黙の協定があるのか?」
・このナチス御用達の銀行だったBISは、「ブレトンウッズ会議」で解散が決議されていたにもかかわらず解散せず、戦後になってもしぶとく生き残った。ナチス時代にBISの理事を務めた面々は、「イングランド銀行」総裁はじめ、そのまま名誉ある人生を送った。
戦犯に問われたドイツ経済相シャハトらも、連合国の“政策一変”で、早期に釈放され、西ドイツ経済界の重鎮をつとめたり、アメリカの「チェース・ナショナル銀行」幹部に迎え入れられたりした。
ヒャルマー・シャハト
ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任し、ナチスの財布のひもを握った大銀行家。
戦後、ニュルンベルク軍事裁判にかけられたが「無罪」の判決を受ける。・一説には、このシャハトは、第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判所に引き出されたとき、「自分は国際決済銀行(BIS)に代表される、国際金融体制の一員として行動していたに過ぎない。もしも自分が裁判にかけられるようなことがあれば、自分は国際金融陣営が『ヒトラー計画』を背後で操っていたことを示す証拠を公開するであろう」と、ニュルンベルク法廷を脅迫したので、アメリカとソ連の裁判官の強い反対を押し切って、釈放、無罪放免とされたとも言われている。
◆第3章:ナチス経済とスイス経済は密接に結びついていた
・大戦中、戦争が進むにつれ、高度技術を駆使したスイスの輸出品はドイツ軍需産業にとって必需品となり、それがベルリンがベルン(スイスの首都)との関係を良好に保とうとした理由のひとつになっていた。
スイス産業界は、軽砲兵器から爆弾の時限装置に至るまで軍事用の製品を各種生産し、ナチス・ドイツに向けて輸出していた。
・スイスの誇るこの高度技術がナチスの戦時体制を支えていた、と語るのは、スイス人歴史家で『スイスとナチス犠牲者の資産』の著者ジャーク・ピカールだ。
「実際のところ、スイスはナチスの軍需産業に貢献していた。具体的には、ドイツの兵器に利用できるような高度技術製品を輸出して利益を得ていたのである。時計がその一例である。時計というのは陸海空を問わず爆弾の時限装置として、さまざまなものに利用できるのだ」
—————————-中略—————————-
◆第4章:ユダヤ人団体に訴えられたスイスの銀行
・第二次世界大戦中にスイスがドイツから買ったり、預かった金(ゴールド)は占領した銀行やホロコーストの犠牲者から略奪したものがほとんどだったが、この金の中には強制収容所で死んだユダヤ人の歯から取り出された分も含まれていた。
スイスの銀行はヒトラーの要求で、強制収容所に送られたユダヤ人顧客の口座を凍結し、それを戦後50年間も黙っていたのであった。
《 ナチ金塊ルートの一例 》
ナチス・ドイツ軍の攻撃を受けたベルギー政府は、当時ヨーロッパ一といわれた保有金塊をフランスへ移転。
フランス政府はドイツ軍がパリ間近に迫ると、これを自国所有の西アフリカのダカールへ送った。フランス降伏後はヴィシー政権の対独協力により、
金塊は川船とラクダに積まれてサハラ砂漠を縦断し、航空機でマルセイユへ運ばれた。そこからベルリンへ送られ、大半はスイスの首都ベルン(スイス銀行)ヘ運ばれた。
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