https://indeep.jp/nobody-s-fault-but-mine/
より転載します。
この第三次世界大戦の責任はどこに、そして誰にあるか
投稿日:
The Pop Group / For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?
急激に進展する世界の中で
さまざまな国や地域で、1年半くらい前まで「陰謀論」として片付けられていたことが次々と実現しています。
ヨーロッパでは、ロックダウン、あるいは準ロックダウンが各国で始まっているか、準備がなされていますが、ロックダウンそのものはすでに昨年行っていたことですので、それはいいのですが、問題は、
「次々とコロナワクチンの国民の義務化」
がなされているということがひとつ。
最初にそれを宣言したのはオーストリアで、日本の報道でも「オーストリア、ワクチン義務化へ」など報じられていますが、英語の報道などでは、以下などが詳しく報じています。
オーストリアは、強制的なコロナワクチン接種に訴える最初の西側諸国になった
Austria becomes first Western country to resort to mandatory coronavirus vaccination
そしてオーストリアではなく、南半球の「オーストラリア」では、ノーザンテリトリーで「軍隊による強制的な隔離と検疫」が始まったことが報じられています。
3000人を収用できるハワードスプリングス検疫施設という場所に、「陽性と示された場合は、強制的に搬送される」と伝えられています。陰謀論と言われていた強制隔離も現実化しているようなのです。
以下の米ゼロヘッジの記事などに報道等を引用して記述されています。
オーストラリア陸軍が COVID 陽性患者の検疫強制収容所への移送を開始
Australian Army Begins Transferring COVID-Positive Cases, Contacts To Quarantine Camps
ワクチン接種義務のほうは、オーストリア以外にも、ドイツやチェコなど検討を開始している国も多いようです。
mRNAコロナワクチンのことについては、自分でも飽きるほど書き続けていたので、本当に飽きてしまいましたが、ものすごく端的にいえば、
「どんな条件、状況であろうと接種してはいけないもの」
です。
少なくとも自分の生命あるいは「魂」を守るためには。
まあ、「魂」のほうはややこしい話となるので、ここではいいですが、しかし、世の中にはたくさんの人たちがいるわけで、ご自分の命や精神性や魂などは「どうでもいい」という方々もいらっしゃると思います。
それならそれでいいのだとも思います。
私という人間は、本当に徹底的に「自由」に憧れる人間であり、たとえばどこかで隣に座っている人が自分の頭に拳銃を突きつけて自死しようとしていたなら、「喉のほうが間違いがないですよ」と言ってあげるような人です(これはこれで頭を選択したその人の自由を奪っていますが)。
ともかく「強制」というのが小さな頃からとにかく嫌いで、そういう意味では、病弱で寝たきりだった幼少時代は幸いだったのかもしれません。寝たきりだと何も言われないですので。
最近では、コロナでもワクチンについても理屈的なことばかりを書いていますが、もともと、イヤだったのは、理屈からではなく、もう2年近く前にもなりますけれど、
「やんわりと強制化が始まった」
ことでした。
まずはマスク。
さして次々と「やんわりと」強制されていく中でワクチンのフェーズが始まった。
マスクの非科学性に辟易していた中でワクチンが出てきたわけで、「もういい加減にしろ」と最初から思い、それがワクチンのことを調べる原動力にもなりました。
そうして調べて続けていましたら、これがもう「どうしようもないもの」であり、どこからどう見ても、大量殺戮のイメージしか浮かばないものだと知っていく次第です。
もちろん、そう思わないのは自由ですし、自分の信念の中で死んでいくことも人の生き方としては問題はないと思います。
しかし、ふと思いますのは、今、ヨーロッパなどで起きている強制的な方向は、実は、今から1年10ヶ月くらい前に「中国」が発動した「軍事体制下宣言」と同じなのですよ。
以下の 2020年2月の記事で取りあげています。
まだ欧米や日本でパンデミックが始まる前です。
世界は戦時下へ : 湖北省に中国史上初めてとなる「戦時統制命令」が発令される。アメリカ軍は全米でパンデミック対応作戦を展開
投稿日:2020年2月14日
以下は、昨年 2月の中国の報道からの抜粋です。
湖北省でウイルス対策を強化するために戦時統制命令を発令
湖北省十堰市の張湾地区に対して、2日12日の夜より、新型コロナウイルス肺炎の発生をより良く制御するために、中国国内初の戦時統制命令を発令したと同地区の予防および統制命令当局は述べた。2月13日からの 14日間は、地区の居住者は、厳密な管理下にある建物に出入りすることはできない。
伝染病対策に使用される車両以外は、地区へ出入りすることはできず、すべての生活必需品は地区の委員会によって配布および配達される。住民が緊急に薬を必要とする場合、委員会がそれを提供すると述べている。
戦時管理命令が予定より早く終了するかどうかは、該当地区の疫病管理の状況に依存するという通知が追加された。 (ecns.cn 2020/02/13)
この戦時管理命令が、今は「ワクチン」に移行しているわけです。
そして、この軍事的強行政策は今は主にヨーロッパに移行していっている。
日本では、現在のヨーロッパのような、政府や当局による強行な方針は出ないかもしれません。
しかし、この「日本のワクチン接種率が 80%に近い」というところまで来た状況を思い出してみてほしいのですが、ぶっちゃけ、マスクにしろ何にしろ、
「やんわりと強制化が始まっていった」
中で進行しました。
自分の意志とは関係なくワクチン接種した人たちがどれだけ多いことか。私の周囲や親戚にも、本人は打ちたくなかったけれど、周囲の圧力で接種した人たちがたくさんいます。
これは、政府による強制などよりも「恐ろしい」強制だと私は思います。
ヒトラー政権やスターリン政権など比較にならない恐ろしさです。
政府による強制なら反抗するなり、反発するなりがあり得るかもしれないですが、「周囲の心優しい強制」に勝てる人はいません。
それで、今のように 80%などの人たちが接種した状態になった。
他国の接種率の高い国を見ていれば、この後にどんな惨状が訪れるのかは理解できますが、もう後戻りできないところに来ている。
…ベルギーの病院ではICUの重症患者の100%が接種済み。アイルランドでは成人の接種率が99.7%の地域が同国最大の流行地に
投稿日:2021年11月16日
ものすごく端的に言えば、「半分くらい死んじゃう」のですよ。
半分というのは、以下の水ワクチンの問題もありますし、他にもいろいろと人により免疫は異なりますので、適当な比率で「半分」と書いていますけれど、3分の1でも 70%でも何でもいいですが、そうなることは避けられないです。
不完全なmRNAから成る水ワクチンの探究でロシアンルーレットに勝つ消極的な方法
投稿日:2021年8月7日
「死んじゃう」とかは適当な表現だと思われるかもしれないですが、以下の過去記事の後半にリンクした数十の記事にある資料等を、できれば「すべて」お読みいただきたいです。
終末的な感染爆発手前の穏やかな日本のひとときに、この精緻なワクチンについての過去の項目別リンクを示させていただきます
投稿日:2021年9月30日
この「死んじゃう」というのは絶対的なメカニズムです。血栓や不妊は前段階の話でしかなく、行き着く先は、それしかないです。
それが半年後か1年後か5年後かはわからなくとも「絶対」的です。
以前から「今は戦争だ」と繰り返し書くことがありましたけれど、陰謀論というような響きのいい表現で掻き消されるにしても「大量死を伴う事象」に戦争という言葉を当てはめることはさほど間違いではないとは思っています。
戦争……といえば、ミラノの分子腫瘍研究所に所属されていらっしゃる日本人科学者の荒川央さんという方のブログ(note)記事をご紹介したことがありました。
戦時下に、日本人の専門家のワクチン遺伝子配列の分析を読んで知る「スパイクタンパク質の産生を止める術がない」こと。そして「未知のタンパク」の存在
投稿日:2021年10月17日
この内容とは直接関係ないのですが、この記事の前半に、戦前の映画監督だった伊丹万作さんという方が、1946年(昭和28年)に『映画春秋』という雑誌の創刊号に寄稿した文章の一部を掲載しました。
そこでは、
> だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
というような部分を抜粋しましたが、この文章には他にも今を非常に思わせる概念が出てきます。
その一部を抜粋します。
ここにある「戦争」という言葉を先ほど書きました「ワクチンのやんわりとした強制」と置き換えますと、わかりやすいと思われます。
伊丹万作『戦争責任者の問題』(1946年8月)より抜粋
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営む上において、いやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」と。たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
……だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。
だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたものが必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。
これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決して威張っていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。
しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。
これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
ここにあるほとんどすべてが現在の「マスク」、「行動制限」、「ワクチン」などにあてはまることがおわかりではないでしょうか。
> だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
これが第二次大戦以上にのぼるかもしれない大虐殺につながってしまいました。
……私は最近、中学生の時に聴いていたレッド・ツェッペリンという英国のバンドの「 Nobody's Fault but Mine (すべて俺の罪)」という曲を思い出します。
曲は、「誰のせいでもない。すべて俺のせいだ。悪魔がやれと言った」と始まります。
Nobody's Fault but Mine / Led Zeppelin (1976年)
そして曲は、
今夜こそ俺は去る。
誰のせいでもなく俺のせいだから。
で終わります。
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