https://note.com/chikougouitsu/n/n59224527fef2
より転載します。
意思を通すことこそ生きること
今日は衆議院選挙の投票日です。
開票作業が始まる午後八時に当確が出るセレモニー、国際比較でも圧倒的に高額な供託金、権力者が出資している企業が作る自動開票システム、公約など当選後には綺麗サッパリ忘却する政治家、それを追求しない有権者など「この国の民主主義は形だけでいい」と言わんばかりです。
絶賛薬害発生中の謎ワクチンについて言及する候補者はほぼ無所属という目も当てられない事態です。
主な野党は、謎ワクチンについても改憲にも自由貿易協定にも原子力緊急事態宣言についても、その他何一つ国民にとって重要な事柄を争点にしません。
すべての政党が「同じ方向」へ向かっています。
与野党グルですから当然なんですが、これが未だに伝わりません。これを理解できないのは経験上ですが普段、「陰謀論には与しない」と言ったりする勉強家の人に多いような気がします。経済を学んだり、政治通と呼ばれるような人ほどこの与野党グルを頑なに認めようとしないのです。
逆に、与野党グルをすんなり受け入れられるのはノンポリと言われるような人たちです。
「知識と言われる情報」に喰われ、頭でっかちになってしまえば、現実を素直に見られなくなるということの証左のように思えます。
過去に「無知の支配と叡智の没落」といった記事を書きましたが、おそらく知性の破壊はスマホとマスメディアによって行われ、その結果として無知の支配が顕在化するのでしょう。
その無知の支配は「ファシズム」を生みます。
スマホによって膨大な情報にアクセスできるようになった大衆は、その膨大な情報に向き合うことなく、より「安直な」情報を受け入れるようになったのです。
約二年間、マスメディアの報道だけで全体主義社会が形成されているこの様は完全に大衆の知性の破壊をもたらしました。
知性が破壊されたその結果が謎ワクチンの接種率に反映しているのだと考えられます。
国民の70%が接種を終えていることになっています。
この数字も手放しで信じられるものではありませんが、これが事実だとしたら「ワクチン 危険」という検索すらしていないのでしょう。
仮に検索していてこの接種率なんだとしたら、同時に相反する情報に接した場合の思考力は相当に衰えているのだろうと推測できます。
一般大衆はすでに複雑な問題を思考することはできなくなっているのでしょう。
その結果、以下のような暴言が善良な行いとされ、歪んだ正義を生み出しました。
「マスクの着用をお願いいたします。」、「ソーシャルディスタンスの確保を」、「マスク警察」といった思考停止の獣たちは、常に何かを「守るため」と言います。
一方では、謎ワクチンの危険を訴える有志の人たちもいます。少数派ではありますが訴えることを継続することで一人でも多くの人を救えているのだと思います。
もし、この世界に救世主がいるのだとしたら、「小さな行動ができる人達」です。
たった一人のヒーローではありません。
複雑化した現代社会にひとりのヒーローが出てきたとしてもできることは限られます。
そのヒーローは社会から悪、ヒールのレッテルを貼られますが、それを物ともしない勇気があるからこそヒーロー、英雄、救世主足り得るのです。
これまでの歴史では「傍観者」として救われた命がありました。
しかし、今回は「誰一人取り残さない」と宣言しているわけですから傍観者はまともに生きることはできないでしょう。
つまり、この混沌は、この革命は、この戦争は、ひとりひとりの意思が問われているということです。
生きるということは、「自分の意思を表現し、外部からの侵害から身を守ること」でもあります。
自分の意思を伝えないのであれば、もはやそれは人間ではありません。ヒト科の動物です。
この20年、理性を保つことが大人として当然である、人前で怒ること、感情をむき出しにすることは悪だといった洗脳が行われました。これによって感情論は常に否定される空気が醸成されました。
あえて言いますが、感情を表に出すことは「人間らしい」素晴らしいことです。
喜怒哀楽は人間の基本的な感情表現です。
なぜ、喜んじゃいけないのでしょうか?
なぜ、怒ってはいけないのでしょうか?
嫌なことを嫌というのはそんなに自分勝手なことでしょうか?
謙虚であれ、素直であれ、我慢すれば良いことがある、辛抱強くあれ、こういったことは日本では美徳とされます。
芸事を覚えたり、物事を学んだり、技術を習得する場合には良いことですが、人生全てに当てはまるような考え方ではありません。
これら以外の場面で行われるこの美徳は、単なる管理者側の都合です。その方が円滑に統治できるからに過ぎません。
自分の存在意義を社会に決めさせてはいけません。
どんなにかっこ悪くとも、みっともなくても、自分の価値を決めるのは自分であってほしいと思います。
その行動に正解も間違いもありません。
行動した事実のみが記憶されるだけです。
正解か間違いかを判断できるのは未来しかないのですから、行動することを自分の存在価値として認めてください。
そのように思えば、周囲の価値観に惑わされることはありません。周囲が無価値と判断したものだとしても、その価値を決めるのは常に自分です。
私はそんな人達に「月が綺麗ですね」とでも言いたい気持ちでいっぱいです。
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