2021年8月26日木曜日

人間がクラウドコンピューターの部品になる時

 


より転載します。

スマホ使用者が一斉に狂暴化する映画「セル」:低評価の理由

 

スティーブン・キング原作(2006)の「セル」(2016)とぃう映画を観た。脚本もスティーブン・キングが自ら手掛けている。

「ゾンビもの」であるが、「異色のゾンビもの」である。“電磁波ゾンビ” である。

 

 

 

ごらんのように、5点満点中、2.26点 と評価は低い。

 

 

海外での評価はさらに低い印象がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

これはまさに “酸化グラフェンー5Gによる大衆の行動コントロール” の劇的映像化である。非常に予言的な映画である。一見の価値がある。
 
人々が携帯・スマホを使っている最中に電磁波によって一斉に狂暴化する。
 
 
これは5Gによって技術的にはすでに可能なことである。たしかに誰もが知っている技術ではない。しかし、軍事的な技術として、すでに容易にできるレベルに達しており、ステルス的にも使用されている。
 
 
今現在、世界の多くの大衆は “ワクチン” と称する “酸化グラフェン” を “接種” されることによって、“5Gとの接続性” を、飛躍的に高められている。
 
 
内外の数々の映画評やレビューを見たが、こうした潜在的な意味に気づかないひとたちによる無数の低評価によって、この映画の真の価値が埋もれている。
 
どこの映画紹介サイトでも低評価なので人々はもはや観ようとしないのだ。(笑) 実際、そのように大勢に従った判断をするほとんどの人々は、この映画を観ても同様の低評価をすることになるのだろう。(笑) 自分の感性と自分の頭脳を信じないで、大勢の評価にいつも従う低脳層が世間の 99.9% 以上なのだ。(笑)
 
レビューをみていくと、携帯・スマホを使っていた人たちが狂暴化する原因が電磁波だとしても、その必然性の説明がないので、映画として分かりにくいとう意見が多く見られる。
 
 
それと、ほとんどのひとが口にするのが、エンディングについての不満である。「エンディングにモヤモヤする」「すっきりしないエンディング」「けっきょく主人公はゾンビになったわけ?」等々。
 
ゾンビ映画の古典でもある、ブラピ主演の「ワールドウォーZ」では、最後はいちおう問題が解決して「めでたし、めでたし」で終わっている。
 
 
 
しかし、この映画「セル」では、ハッピーエンドはなく、何と主人公(キューザック)は、呆けた顔で、電磁波に操られる電磁波ゾンビの群れの一人となって歩いているシーンで映画は終わる。
 
 
このエンディングに不満が炸裂しているようだ。(笑)
「フィクション」が「フィクションの世界」できちんと完結することを映画ファンは望むのだろう。
しかし、映画ファンたちが当然「フィクション」と思って観ているこの映画は、実は「現実」なのだ。そして、「現実」は「フィクションの世界」では完結しない。
現実に存在する問題を「フィクションの世界」で解決させることは “邪道” であり、“まやかし” なのだ。
 
このエンディングはむしろ鬼才スティーブン・キングの、作家としての “一貫性”、“妥協の無さ” を表していると言える。
 
つまり、彼は、この「電磁波による人間のコントロール」が「フィクション」ではなく、「現実」であることを十分に認識しているのである。
 
 
 
「セル」の原作は 2006 年  である。スティーブン・キングが、マイクロ波による人間の精神状態と行動のコントロールについてかなり深いリサーチをしていることは明らかである。
 
 
「フィクション」ならば、作品の終盤で「問題解決」に持っていくことは可能だろう。いくらでもそういった話に展開できたはずだ。
しかし、もし、それが「フィクション」でなく、「現実」だったら、どうだろうか?
 
 
スティーブン・キングは、作品中では、電磁波による大衆の “コントロール” の可能性、現実性に敢えて踏み込まない。単に「基地局アンテナからの電磁波」がどういうわけか人間に対してそういう現象を引き起こしてしまったかのような展開である。コントロールしている犯人、首謀者は設定せず、或る日そういうことが起きてしまったという、 “不可抗力的な現象” であるかのように話を進める。そして、この “謎” は最後まで解き明かされない。
話を単に、“原因としての物理的な電磁波と、結果としての人々の狂暴化” だけにあえて限定して、この映画を単純に小さくまとめようとしたと思われる。ヘタに話を広げると、収拾がつかなくなると見たのだ。(笑)
 
そして、「ホラー映画としてはこれでいいだろう」 と判断したのだ。
 
「電磁波による大衆のコントロール」という、“人為性” “計画性” が入ると、それだけでストーリーは複雑になり、重くなってしまい、とても「ホラー映画」として完結させることはできない。
 
誰がコントロールしているのか?」
 
「何のために人々を狂暴化させるのか?」
 
という、当然の疑問にも答える映画となると、「フィクション」としても重荷で大変なことだ。実際、もはやフィクションの世界で終わらないことになるだろう。なので、“謎” のままで終わらせるしかなかったのだ。
 
昨年からの “コロナ騒動”、そして今年からの “グローバルなワクチンキャンペーン”・・・、これらを仕組んでいる闇の組織まで視野に入れなければならなくなるだろう。「現実」とは、かようにも広範で複雑で重層的なものだ。
 
 
ある意味で、スティーブン・キングはこの映画では 「フィクションのホラーストーリー」から「現実のホラーストーリー」に足を踏み入れている。
 
現実の問題を映画の中の周辺的な要素として入れることはごく普通にあることで、大して問題にはならない。しかし、現実の問題をストーリーの根幹部分に組み込んでしまったら、映画(フィクション)の世界でそれを解決させたかたちで完結させることはできない。
 
だからこそ、観客のハッピーエンドの期待を敢えて裏切り、問題が “未解決” であることを示唆するかたちで終わらせざるをえなかったのだ。
 
このことが理解できない映画ファンが、こぞって低評価のブーイングをしているわけだ。(笑)「スティーブン・キングの最悪の作品」「スティーブン・キングの失敗作」等々。彼らは、すべてフィクションで完結する作品を楽しみたいのだ。ピースが足りないパズルは受け入れられないのだ。
 
とはいえ、ある意味で、彼らの不満は正当なものかもしれない。映画は本来「フィクションの世界」である。フィクションの世界の出来事として謎めいたことが起きたのならば、フィクションの世界の中でふつうは解き明かされるべきだ。
 
 
しかし、スティーブン・キングは、この映画「セル」を、フィクションの世界として提示しながらも、実は、その世界は彼の多くの作品とは違って「現実」なのだ。
 
だからこそ、彼はどうしても「ハッピーエンド」で終わらせることができなかったのだ。なぜならば、「問題」は未解決のままわれわれの現実世界に存在し続けているからである。作家の「想像力」や「技量」によって解決できるような問題ではないからである。なので、謎解きのピースが足りないことを承知で映画化しているのである。この謎解きが作家としての自分の手に余ることを理解しているのだ。
 
 
その問題は実は “謎” でも何でもなく、以下のように “多層的かつ複合的な科学的現実” なのだ。
 
1)携帯、スマホ、タブレットをが機能するための “ワイヤレス電波(電磁放射線)” は、それ自体が人間に有害で、すでに身体的、神経的、精神的なさまざまな障害を引き起こしている。
 
2)今後さらに進む “5Gの展開” により、上記1)の問題が一層深刻化することは不可避である。
 
3)“酸化グラフェン” をワクチンと称して大衆の体内に注入することと、“5Gのシステム” を悪用することの両方によって、大衆の身体的、神経的、精神的状態はおろか、余命までも “遠隔的にコントロール” することが可能となっている。
 
 
4)上記3)は、単に「可能」であるどころか、すでに “ステルス的に実行されている疑い” があり、しかも今後はさらに拡大することが予想される。
 
 
 
映画「セル」は、21世紀のコロナワクチンの時代に起こり得る現実を部分的にではあるが、垣間見させてくれている。
 
 
 

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