2014年12月26日金曜日

月山と刈田山と花塚山

月舘町伝承民話集から引用します。最後の引用になります。

月舘町 伝承民話集
昭和49年4月1日
   ■発行  月舘町教育委員会
   ■編集  月舘町史編纂委員会
           福島県伊達郡月舘町
   ■印刷  北 日 本 印 刷
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10010.003/html/00144.html

月山と刈田山と花塚山

 むかしむかし大むかし天照大神のご命令によって月読命たち三人の姉妹が東の国にお下りになった。三人の 神様たちは山形県の月山と宮城県の刈田山と福島県では花塚山とにお鎮まりになる定めだったが、どの方が どの山にお出でになるのかはまだ決定していなかったので、ある日、三人の神様たちがご相談になった。

 この三人の神様の中で月読命は一番年下の妹だったがオ智があり話もきびきびした神様だったので、一番上のお 姉様に花塚山は非常に眺めがすばらしくて、お花畑があってとても美しい山ですから、お姉様がお出でにな るには相応しい山ですから、お出でになられては如何でしょうか。と申し上げた。一番上のお姉さんは気質の やさしい、おとなしい神様だった。妹のいうその美しいきれいなお花畑があるということでお花の好きな神様は それでは私がその花塚山に参りますと申し出られました。月読命は次のお姉様に、お刈田山はとてもきれい な山で山頂からは月山も見えますし花塚山も眺められます。とても美しいお山ですが、お姉様お出でになり ませんか。と申し上げますと月山も花塚山も見えるのでは何時も姉妹三人が一しょにいるような山ですから 私が刈田山に参りましょうと仰せられ月山には一番下の妹の月読命が鎮座されたのだといい伝えております。

 それで今でも花塚山にはお花畑があり、その花は他所では見られない美しい花だと聞いているが、お姉妹 でも知恵のある一番下の神様が一番尊とい奥の御山の月山にお鎮まりになったのだといい伝えている。

[筆者注] これはこの辺に語り継がれて来た伝承民話であるが、月読命が三人のお姉妹の一番年下の神様だ った事はあり得ない事の様に思われる。古事記には天照大神より月読命に夜の世界をしろし召せと仰せられて東の国にお出でになって月山に御鎮まりになったように記憶しているが、然し筆者は昔の人たちが山形県 の月山と宮城県の刈田山と福島県の花塚山とを三人のお姉妹に結びつけて考えた根拠は何なのだろうか。花 塚山が一番上の姉さんだったという話の中に近々の花塚山を身びいきした。あるいは月山の月読命の信仰が 羽黒山、湯殿山、三山の奥のお山としての尊崇が一番下の妹神であり乍ら月山に鎮座する知恵と温容を連想して選の説話となったのではあるまいか。

 高橋嘉久吉編「川俣町史資料」の中に卿社春日神社別当として昔神宮寺という寺格の高い寺があった事は 誰でも知っている事であるが、この神宮寺が花塚山の別当であった事が記されている。川俣町を中心として 最も寺格の高き神宮寺が別当として花塚山に奉仕したという事実はそれだけ花塚山の存在価値を信仰の上か らも充分認めていたからではなかったろうか。

 昔の人達がこの話しを聞かせる時、花塚山とはいわなかった。お花塚であって宮城県の刈田山は、お刈田山であり、月山は奥の御山の言葉で表現した。その言葉には親しみと尊敬の心がうかがわれるのである。

 だがわれわれには、月山と刈田山と花塚山に関しては前述の様な事しか知っていない。例えば山形県と宮城県 に、むろんその当時県名、県境などはある筈もないし、東国として奥羽の地としての視点からではあったろ うが、三ツの山の相関性を作り出した根拠は出羽三山信仰の基盤とも見られるのではないだろうか。月山、 羽黒山、湯殿山を奥の三山と呼びなしているこの地方の信仰者は更に身近に月山を中心に刈田山と花塚山を 選び神を祀り出羽の三山になぞらえた三ツの姉妹の山としての信仰の対象ではないだろうか。

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(ブログ主曰く)

花塚山山頂付近には出羽三山が祀られています。
ここから北北西の蔵王山刈田山を望むと、その左手はるか彼方に出羽三山があります。
蔵王連峰のいちばん南が不忘山です。

ちなみに、同方向手前には福島盆地信夫山、山頂には出羽三山が祀られており、福島市のわらじ祭りはこの羽黒山に奉納する大わらじを奉納する行事です。
信夫山は、偲ぶ山だったのだと思います。

現在の花塚山山頂付近にはお花畑はありませんが、川俣町側のふもとには町営の公園「花塚の里」があり、ここは往年からの登山道であり、放鹿神社があります。

小手子姫が大和の故郷を懐かしんで鹿を放したことからその名がついたといわれています。


女神山の雨降り石

月舘町伝承民話集から三度目ですが引用します。

月舘町 伝承民話集
昭和49年4月1日
   ■発行  月舘町教育委員会
   ■編集  月舘町史編纂委員会
           福島県伊達郡月舘町
   ■印刷  北 日 本 印 刷
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10010.003/html/00144.html

女神山雨降り石の由来

 女神山頂上西寄りに誰知らぬ人のない雨降り石があります。この石に登れば、必ず雨が降るから登ってはならないと竪く禁じられている疣石です。
女神山雨降り石の絵

 何時の時代から、又どうして雨降り石と呼ばれるようになったかは詳らかでありませんが、古老の言い伝 えによると、今を去る1350、60年前頃、女神山の中腹には時の王妃小手姫が、糸織りの業を近隣に教 えられつつお住いになったと言われ、後崩御になられてその遺体は、高貴なお方故頂上に葬られたと言われ ます。


 其の上に沢山の疣石を積まれたと思われたために疣石に登れば、罰が当る其の罰に雨が降ると伝いら現在に至 っておるのではないでしょうか。現にその周辺を歩けば、空洞を踏むような軽くどんどんと響きがいたします。 又一説には、時には未曾有の旱ばつで田圃の稲は枯死し、畑作物も枯死寸前に追込まれ、山野の草木も枯れか けたと言われます。勿論、飲用水も喝を潤すにも足らない程でその惨めさは言語に絶するものがあったと言 います。
 其の惨めさを目のあたりに見た小手姫は、隣愍の情禁じ得ずお供を連れて女神山上に登られ、疣石に座し て雨乞いのお祈りを捧げました。ところが、暫くすると西の方から雨雲が広がり盆を覆すような雨になったと言 われます。周辺農民の喜びは、たとえようもなく後で、その行事を聞いた農民は、小手姫の有難さが身に泌 みるとともに、小手姫の座した疣石を雨降り石と呼ぶようになったとも伝えられています。

 昭和18年頃には稀なる大旱ばつで、地元上手渡は元より糠田下手渡と大勢の百姓がみの笠着用で登山し、 神主のお祓を受け雨乞を祈祷共々御神酒をいただきながらその疣石に登って
「雨タメ用神ダー西カラ雲ブッ立ッテ雨ザァザァ降ッテコヨー」と連呼しつつ雨乞いをいたしました。

以前もそうした事は度々あって、霊験はあらたかに大抵は雨が降ったと申します。




小手子と女神山

月舘町伝承民話集から再び引用します。今回は長文ります。

月舘町 伝承民話集
昭和49年4月1日
   ■発行  月舘町教育委員会
   ■編集  月舘町史編纂委員会
           福島県伊達郡月舘町
   ■印刷  北 日 本 印 刷
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10010.003/html/00144.html

小手姫の事蹟と女神山(史考)

 小手姫はどんな家柄に生まれ、どんな身分の方であったかを、天皇の系譜及び、大伴家の家譜を調べて見た。

1、日本書記崇峻天皇のころ(32代天皇)
  崇峻元年春3月、大伴糠手連の女小手子を立てて妃となす。

1、敏達天皇12年、百済より日羅等吉備国児島の屯倉に来る。朝廷大伴糠手子連をして慰労せしめ任那(みまな)再建の策を諂問せしむ。(日本書紀巻二〇に依る)

1、小手姫の祖父金村は継体天皇の擁立者であり安閑、宣化の三朝に亘り大臣として全権を振い、欽明の初め物部氏は蘇我の馬子によって失脚し、その後蘇我権勢の独壇場となる。

 天皇家の系譜から見ても、大伴家の家譜から見ても小手姫は天皇家と婚姻するだけの資格ある豪族の生まれである事がわかる。ではそのような家柄に生まれて何故蚕や糸機の技術が具えられたか疑問となるが、百済より一生に三度替る宝の虫として欽明天皇12年に献上され天皇もこの虫をご覧になった記録もあり、わが国の蚕の始めとされる。当時は皇后も皇妃も自ら蚕を飼い糸をとり機を織って皇子や皇女の衣とした事は歴史上歴然とした事実であり、また百済から来た技術者に付いて習われるのは朝廷と、ごく一部の豪族の家 庭であったであろう。そうした環境にあった小手姫は11、2オ頃よりその技術を学ばれた、。従って蚕の飼 育、糸とり、機織りまで十分に技術を身につけておいでになったと考えられる。



 ではだれでも考える大和の皇后が何故こんな地方に来られたかについては、崇峻天皇5年11月13日寝殿に於て蘇我馬子の家来、帰化人東漢駒に背中より一突きに刺されて殺された。ときに蜂子皇子32オ。この皇子が居る限り馬子は枕 を高くして眠る事は出来ない。蜂子皇子の命は風前の灯である。父天皇の葬儀も何も考える暇なく、その夜 の中に従者3、4名と馬で飛島を脱出した。(峰子皇子伝記)然し蜂子皇子の行く所、身をかくすところは常 陸、越後より西の地域には全くない。ただその当時東国(今の福島、宮城より東北の国)は大和朝廷の支配を 受けなかったので、この東国だけは蘇我氏の権力も及ばなかった。逃避するところは東国より外になかったのである。

 小手姫は東国に逃れた蜂子皇子と一緒に平和な生活を望んで止まなかった。ために実父大伴糠手も老躯に 鞭うって娘や孫の行先の落ち着きを見届けるべく同行する事になったのであろう。また大伴糠手としての旅 行が危険だったから秦峯能と名を替えたのである。この地方に残る濫觴記や地理誌に、あるいは古書に蚕神 機織神の縁起に出て来る秦峯能は大伴糠手の世を忍ぶ替名であるとも記している。
 
 ではその当時の旅という のはどんなものだったろうか。もちろん今の様に紙幣とか通貨はない。これら通貨の出来たのは和銅年間で、 元明天皇の御代小手姫より約120年もの後である。旅をするにはみな物であって、例えば珍しい織布とか器物とかの品物であり、更に高貴の方々の食器とか着替えの様な品物となるとそれだけでも相当の量であった ろうし、その費用だけでも数多の人夫を必要としたのであろう。

 更にこうした方達の一日の旅程はどの位歩 かれたろうか、筆者は1日2、3里位ではなかったろうかと推測しているが仮りに常陸から来たとして30 里、雨風の日もあったとすれば12、3日は掛かる事になり宿の礼食事の代まで品物となるとそんなに多人数で多くの品は扱って来る事は不可能に見える。女神山中腹に仮屋を建てて住む事になったのも、旅を続け られない事情の為であったと推測して居るが、他に病気とか種々の原因だったとすれば再びこの地方から移 動される筈だし再出発に関しての話は全然伝わっていない。以上の事から見て小手姫が皇后であった事は間 違いない事実である。だが女神山麓の各部落にも、広く語り継がれた伝説にも全然この事実は語られていな い。それは父の大伴糠手のように名は替えなかったけれども、その身分については極秘とされたからであろ う。更に機織り神及び養蚕神社縁起等の附会の説が紛れこんで益々昏迷したのであろう。

 例えば川俣の機織神社縁起に(又は小手濫觴記)

 人皇16代仁徳天皇の御代大和国高市郡川跨の里に庄司秦の峰能という人あり、この人、天皇の命を蒙 り一子小手姫を伴えてこの地に来り桑を植え蚕を飼い絹を織る業を教えたり、朽人山より西北の諸村を総称し て小手郷というは小手姫より出でたるものにして」と記している様な訳で、更にこの小手姫を48代称徳 天皇の時代としたものもある。この称徳天皇の侍医で百済から来た小手子という女医があり称徳天皇亡後、都に居る事が出来なくなって、この小手郷の「飯坂村尼舘に住す頗る名医(霊人ともいっている)にして国中 の人々より学信せらる」とあり、この小手尼が小手姫が尼になったのだという附会が流れて居たところもあ ったが、これは昭和43年の歴史読本に小手尼の事が詳しく述べられているが、小手姫と小手尼の年代には明らかに126、7年の隔たりがあるのに一ツのものに混同された記録が何時の時かに書き遺されたのである。記録する事の大事な心構えというものが痛感させられるのである。

 川俣町大字秋山一メ森、佐藤長明氏所有の小手姫記事及小手姫古事による。

 小手姫は常陸から来られた事。女神山の中腹堂平にお住まいなさった事。蚕糸機織りの産業を当地方に教え られた事。として47オで堂平で亡くなられた事。亡くなられたのは3月15日であった事。崇峻帝の刺 殺された日や寝殿に於て帰化人東漢駒に一突きに刺殺され、蘇我の手の者によって即夜倉梯岡に葬られた事まで詳しく書いていながら、小手姫の葬られた場所は書いていないのである。

 小手姫のお墓は、女神山の頂 上にあるという伝説は山麓の各部落に残っているが記録には見当らない。昭和44年(女神山出版後)飯坂町医王寺において発見、「小手姫は女神山中腹に於て亡くなられその遺骨は該山の頂上将軍岩の傍に葬る」 の記録が初めて見せられたのだった。

 福島市にお住まいの佐藤健次郎先生蔵書「福島県古事詳解」に福島県で一番早く絹織物を税として出した のは秋山郡である。秋山郡とは今はよくわからないけれども川俣と飯野の中間辺りだろうと思われる。続いて往古伊達郡に茶山という山があったのだが今ではわからないと記載されているが、秋山郡が郷とすれば地 形的にも川俣と飯野の中間の字句も当ってくるし、女神山の山桑から見ても絹の生産第一号は、小手姫に由 る直接ご指導を受けた人たちの数量はどの位だったかは分からないが、税として収納された時の歓呼が如何に大きなものだったかは想像に余りある事だったに相違ない。

 此の恩恵の産業が「天安2年(今より1014年前)には桑苗及蚕種類を上州に遣わし蚕飼いを教えたり。」 (小手濫觴記)と記載する程に、小手姫より350年後には伊達は蚕種の本場として蚕飼いの指導者として上州ばかりでなく四方に、広く活躍する程になったのであろう。

 大正十年頃に京都市綾部の村島渚氏は「全国蚕神考」という本を発刊されている。その一部を掲げ紹介すると、

 1、機 織 神 社  小 手 姫    祭神
 1、蚕 影 神 社  赫 夜 姫   (祭神欽明天皇女)金色姫
 1、白 瀧 神 社  白 瀧 姫    祭神
 1、犬 頭 神 社  犬 頭 大 明 神

小手姫、赫夜姫、白瀧姫が地方産業の開拓者であるという事は疑う余地がない。その何れもが婦人であると いう事も注意を要する点で、これは歴史上の蚕神に於けるが如き蚕糸を業とする氏族が、歴史上著名なその一族の祖先または首長たりし人を神として祀ったというのとは趣を異にし、これは歴史上には全々無名な蚕 糸業の実際家を祀ったのである。(原文のまゝ)以上の様に養蚕、機織りの始祖として認めているのである。

1、女神山頂の祭神

 小手姫記事及古事と飯野佐藤氏文書にある、女神山頂の祭神は伊佐奈岐、伊佐奈美、多久機千々比呼命と 小手姫の四柱の神が祀られている事を教えているけれども、此の神々をお祀りしたのはだれなのか。一メ森 文書の頂上に二種の神、伊佐奈岐、伊佐奈美を祀り置きし。と聞くより小手姫直ちに頂上に登り参拝す。とあるのは以前より祀ってあったというのだろうか。

 小手姫、糠手、錦代皇女達の創意で代々の大伴家の祖先よりの氏神を頂上に従者をして祀らせ、お祭りし て来た事の報告によって直様お参りしたという事の意味ではないかと考えられる。それは小手姫以前に、こ の地方に大和の国初めの説話、伊佐奈岐、伊佐奈美の神を知っていたとは考えられないからである。多久機千々比呼命は、その後に小手姫の機織りの始祖として信仰した神を小手姫が亡くなられた後に伊佐奈岐、伊 佐奈美の二神と共に三柱とし、小手姫を別にお祀りしたのであろうと推測しているが小手姫が開いた山だから一名女神山ともいう。の字句は蓋し真実であろう。

修験道より見た女神山

 女神山は今でも修験道では水雲山であり山全体をご神体として水雲山大明神である。この水雲山大明神をお祀りしたのは、役(イン)ノ行者小角といわれ、その小角にまつわる伝説も多い。

 上手渡小志貴神社宮司、渡辺淳 氏所蔵本に、役ノ行者小角が女神山(その当時の山名不詳)登山の縁起がある。その文による蛇頭石(現在カ ド神様)を祀り水雲山大明神の御魂として雨乞い石を祀ったといわれ、更に五行の神、火水木金土の神を祀り 併せて熊野大神をお祀りした事が記されている。役の小角は出羽三山史によると大和国茅原村の人で舒明4 年生まれ、幼にして鬼神を駆使人をして恐れしむ。故に若くして讒に逢い朝命により伊豆に流されその間、 鬼神を使って富士箱根を一日に飛行回峯したと伝えられる。前、熊野に入り行を続け熊野信仰を開く。「天智 4年7月出羽三山を回峯熊野大神を祀り後、奥羽の秀峰霊山を回峯して大和に帰ると」この天智4年は小角 の年36オに当たり、あらゆる深山幽谷に荒行を続け神の御姿を心眼に拝し仏陀の御影を行間に顕じ、そ の御心を感得して熊野修験の大道は打ち立てられつつあった時期の様に思われる。

 役ノ行者小角の羽黒探訪が、こうした時季とすれば、更に崇峻天皇の皇子蜂子の数十年に渉る苦行の末に 出羽三山を開き諸人の苦悩を除き能除太子と尊称された根元を理解する必要があったからではないだろうか 当時羽黒山第二世は福島県信夫の里より蜂子皇子の晩年に弟子となって入山した弘俊である。年代を調べて見ると大体62、3才か、と推定しているが、峰子皇子の身分、母の小手姫妹の錦代皇女、祖父大伴糠手 の小手郷に於ける住居、万民渇仰の中に亡くなられた年令、月日、場所、御墓の位置等も詳しく語られたろうし、皇子峰子の遺法も話し合われたであろう。羽黒修験道から見ても役ノ小角の果たした役割は非常に大きい。現在も羽黒合祀殿の向って左の客殿には能野大神(小角が勧請した)が祀られ末社として建角身大神と して役ノ行者小角が祀られているのを見ても、三山との関係の深さがわかるのである。

 こうした繋がりから見てくると役ノ小角の女神山に登ったのは、大和の皇后小手姫のお墓があるからであ って、蜂子皇子の存生中に果せなかった母小手姫達の墓所と鎮魂の祈りを捧げるためであったと推察してい る。そして小手姫の数奇な運命の悲惨と遺された偉業も行雲流水にも似た流転の終点となった一ツの墓に、 その御霊よ安かれと祈りながら、頂上の大石そのものを小手姫の御霊代として水雲山大明神と、お祀りしたのであると考えているが、この大石に登れば必らず雨が降るのも高貴な御魂を汚す心ない仕業に姫自からが涙で浄められる故であろうか。
 筆者は小手姫の御陵の大石を御魂代としたのも役ノ行者小角の水雲山大明神の御魂代とした大石も、共に 小手姫の御霊を祀られたものであると、考えている。

小手子と錦代皇女

千本沢の由来
この記事は、次の記事を転載させていただきました。

月舘町 伝承民話集
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10010.003/index.html
昭和49年4月1日
   ■発行  月舘町教育委員会
   ■編集  月舘町史編纂委員会
           福島県伊達郡月舘町
   ■印刷  北 日 本 印 刷

千本沢の由来
 小手姫さまがその娘錦代皇女(にしきでのおうじょ)を伴ない、息子である蜂子皇子(はちこのおうじ)を探し求めてはるばるこの地布川にこられ、 ここで機織の業を広められておられた。ところが錦代(にしきで)姫の美しさに魅せられた、近郷近在の若者たちが姫の意を得んものと寄り集り申し入れをした。
 姫はこのとき使いの若者に「毎夜、宣撫沢に錦木を1本づつ立て、2年9カ月で千本をたてることのできた勇気と根気のある若者に、わが意をかなえさせる。」といい伝えた。
 それから若者たちは、毎晩勇気をふりしぼって恋の錦木を立て続けたという。このことに因んで、昔の「宣撫沢」は後に 「千本沢」と呼ぶようになったという。果して、千本の錦木を立てた若者がいたかどうかは知るよしもない。

「布さらし岩」その他
 小手姫にまつわる地名も多いが、小手姫神社上流50米のところには、姫が織った布をさらしたという「布晒石」があり、また糸をとるときに使う「綾竹」をとったところを「竹ノ内」、ほかに筬塚(おさづか)をおさめたという「筬塚」、わくをおさめた「わく塚」などもあり、布川の地名もまた小手姫のゆかりによったもので、町の文化財とし て指定されている。
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「つきだてイズム」
http://www.tsukidateism.jp/about-tsukidate/2011/01/post-50.html

には次のように説明されています。

布川の御前堂(通称小手姫神社)

県道月舘臼石線、バス停「御前堂」の南、布川の清流を隔てて静かな木立の中に立つ御堂が「布川の御前堂」です。二間に二間の御堂は、つつましく小手姫への信仰を今に伝えてきています。
昔、小手姫がこの地においでになり、里人に養蚕と機織りの業を教え伝えたので、その御恩に感じた里人達の手によって祀られたものとの言い伝えがあります。
堂の近くに、姫が使われた筬(おさ=織機の象徴とされる道具)を埋めたといわれる「筬塚」がありまた、御堂から50メートル程布川をさかのぼったところには、姫が布を晒した(布を白くするため水で流うこと)という「布晒石(ぬのざらしいし)」があり、今でも巨岩の上を清流が走っています。
このように、数ある小手姫伝説の中心にこの御前堂があり、この辺一帯は神域として地域民の信仰の場でもありました。
今でも、御堂の格子には数多く繭が下げられ、信仰の続いていることがうかがえます。
大正二年には、岩倉卿が、小手姫ゆかりの地としてここにおいでになり、盛大な祭祀を行なった記録もあり、布川の御前堂は近隣にも聞こえたところとなっているのです。(「ふるさとの小径をゆく」より)
img_fukawa-omae1.jpgimg_fukawa-omae2.jpg
蜂子の皇子を祀る羽黒山、そして蜂子の皇子の母、小手姫の御霊を崇めるお祭りです。昭和29年から始ました。現在は布川の御前堂の境内で行われています。
「和歌奉納」「玉櫛奉納」「霊山棒術奉納」の儀式を約1時間にわたって行う、厳粛なお祭りです。

2014年12月24日水曜日

またまた北朝鮮をあおっているが・・・

アメリカは、ソニーピクチャーエンタティメントを使って、新しい戦争を起こさせようとしている?

金北朝鮮国家主席暗殺陰謀事件(映画)をでっち上げて、北朝鮮をあおっている。

さらに、確たる証拠なしに、オバマ大統領やFBIに『北朝鮮のサイバーテロ」など騒いでいる。

アメリカは、建国以来伝統的にこの手のやり方を性懲りもなく続けている。

そして、近頃は10年単位や短期の戦争では国家を養えなくなっているようだ。

今回は本物の戦争まで突き進むのか。対ロシアのジョージ・ソロスの陰謀と合わせて、みものである。

ま、北朝鮮がこのていどの「あおり行為」に過剰反応するとは思えないですがね。

むしろ、ソニーの興業戦略と言ったほうが正しいかもしれませんがね。コメディ映画売らんかなの。

2014年12月17日水曜日

スローな生活に舵を切りだすこと

CO2による地球温暖化が騒がれているが、犯人はCO2ではない。

夏の多雨、冬の豪雪、台風やハリケーンの頻発と大型化の原因は、地球温暖化などというまやかしのせいではない。

温暖化は温暖化でも、海水温の温暖化が最大要因である。

現代社会におけるエネルギー源、熱源は確かに石油系その他の発熱反応によるところが大きい。
最大の利用価値である電気をとってみると、石油、石炭、ガス、…そして核反応(原子力)による発熱反応である。

しかし、発電時の熱損失が大きい。
実に全熱量の7割が熱損失として、多くは海中にダダ排熱されているのだ。

海水温が高まると空中の蒸気量が増え、多雨多雪をもたらす。
排気CO2ではないのだ。

世界の海は、発電所の温排水によって直接的に温められている。
CO2による間接的な、半信半疑な影響によらずに。

今日の吹雪は前代未聞のすさまじさだ。
この原因が、私たちの文化的生活の基盤になっている電力に由来するものであることを深く認識し、電気に対する依存度を少しずつ減らしていく必要がある。

多少の寒さ、暑さにへこたれない頑丈な心身を作り、
スローな生活に舵を切りだすよい機会であると思う。

2014年10月29日水曜日

祟り神

世界中で、「神」とは祟り神のことを言う。

日本の「神」はよく祟りをなすことはよく知られているが、

最悪の祟り神は、「キリスト教」と言われる、本当は旧約聖書に出てくる「神」であろう。

何しろ、自分を「神」と認めない人間はことごとく殺してしまう、残虐極まりない「神」なのだから。

旧約聖書はイスラム教でも「聖典」だそうな。

エゴが強すぎると人間社会では嫌われることが多いが、それが最も強いのが「神」、「神々」のようだ。

そして、そんな「神」、「神々」になってしまったのが「アメリカ」という国。

最近の「日本」も負けてはいないね。

2014年10月14日火曜日

崇峻の陰謀①

天皇とは祟り神の一族なのだろうか。
この物語は、日本天皇史上初めて、そして最後の、臣下に暗殺されたといわれる崇峻天皇の物語である。
しかし、実は崇峻は殺されてはいなかった…
物語は、古代史と考古学が初めて一致したとみられる大王ワカタケルから始まる。

ここに一人の強力な祟り神がいた。
彼は生まれながらにして周辺に存在する人間、兄弟、家臣その他多くの人々に理由なく祟りを起こした。いや、理由はある。
人はそれを権力欲とも生存本能ともいう。
どちらでもよい。
それが歴史なのだから。
まずは日本書紀の記述を眺めてみることにする。


日本書紀 第14章 雄略天皇 大泊瀬稚武天皇
 
図はWiki雄略天皇より借用


1.     眉輪王の父の敵

穴穂皇子が皇位に就かれ安康天皇となり、都を大和石上に移されたころの話である。

大泊瀬稚武皇子は反正天皇の娘たちをわがものにしようとされた。
   娘たちはこれを聞いて、
「あの方は恐ろしいお方。夕べにお目にかかっても、翌朝には殺されかねません。いやです。」
といって皆身を隠して逃げてしまった。
   
安康元年春2月1日。
   安康天皇は大泊瀬稚武皇子のために大草香皇子の妹幡梭皇女を嫁がせたいと、根使主(根臣)を遣わして大草香皇子に頼まれた。
   大草香皇子はたいそう喜んで、家宝の押木の球蔓を返礼として渡した。
   ところが、この根使主はこの押木の球蔓欲しさに悪だくみをしたという。
   「大草香皇子は勅命に従わず、『妹を妃に入れることはできない』と申しています。」
と、安康天皇に復命したものだからたまらない。
   安康天皇はかんかんに怒って、大草香皇子を攻め殺してしまった。 
   こうして押木の球蔓は根使主の物となった。
  
 そして、なんと大草香皇子の妻中蒂姫は妃として安康天皇の宮中に入れられ、大草香皇子の妹幡梭皇女は大泊瀬稚武皇子に娶あわされた。

中蒂姫はひどく寵愛され、皇后に遇された。
中蒂姫はすでに大草香皇子との間に眉輪王を生んでいたが、母子ともに宮中で溺愛されることになる。

        そもそも穴穂皇子(安康天皇)は大草香皇子の妻中蒂姫に横恋慕していたのだろう。大草香抹殺の結果、女は皇子の物に、宝は根臣の物になった。
        
        穴穂皇子が皇位を継承した事情も振るっていた。
そもそも允恭天皇の皇太子は木梨軽皇子であったが、木梨軽皇子は妹の軽大娘皇女を犯すほど淫乱であったことを理由に、穴穂皇子に滅ぼされているのである。      
 (古事記によれば、木梨軽皇子は伊予の温泉に流刑になった。妹の軽大娘皇女は衣通姫といわれ、その肌の輝きが衣を透き通って見えるほどの女性だった。結局二人は流刑地で心中して果てたという。)

   大泊瀬稚武皇子は允恭天皇の第5子である。
   安康天皇は第2子であるから、ワカタケルは弟ということになる。
   権力と女子を求める強欲は兄をはるかに凌駕している。

彼が生まれた時、神々しい光が御殿に充ちた。
成長につれ、人に抜きん出て逞しさを増していったという。


  安康大王3年8月、安康天皇が山の宮に温泉を楽しみに出かけられ、宴会を催してくつろいでいた時、天皇は皇后に
「私は汝が愛おしくてならぬが、汝の連れ子の眉輪王がこわい末恐ろしい。何しろ彼にとって俺は父の敵だからな。」
とつい口を滑らしてしまったという。
眉輪王はまだ幼少7歳ではあったが、その物語を全部聞いていた。
天皇がいい気持になって皇后の膝枕で転寝を始めたところ、王は遂に安康天皇を刺し殺してしまったのだという。

眉輪王による大草香皇子の「仇討」といわれるが、皇后中蒂姫にとっても同様仇であった。この親子は敵討ちの機会を日ごろから狙っていたのだ。
もっと言えば、二人を唆した者、真の下手人がいるのかもしれない。
それが大泊瀬稚武皇子ではなかったと誰が言えるであろうか。
のちに皇后となる草香幡梭姫皇女は大草香皇子の妹であり、彼女にとって安康天皇は兄の仇でもある。
草香幡梭姫皇女と大泊瀬稚武皇子、皇后中蒂姫が結託して犯行に及んだというのが真相ではなかろうか。

 安康天皇暗殺の報を受けた大泊瀬稚武皇子はまず自分の兄弟たちを始末する。
 皇子の行動は早かった。
 この機会を準備し、待っていたのだ。
 
 最初に兄の八釣白彦皇子を自ら切る。
次に坂合黒彦皇子も問い詰め、眉輪王ともども殺そうとする。
危機を感じた皇子と眉輪王は葛城王円大臣の家に逃げる。
大泊瀬稚武皇子は、円大臣が皇子と王の引渡しを拒んだために、家に火をつけて焼き、皆殺しにしてしまった。
 
1. 市辺押磐皇子も謀殺
 市辺押磐皇子はかつて安康天皇によって皇位継承者に指名されたことがあった。
 目の上のたんこぶである。
 冬10月1日、大泊瀬稚武皇子は市辺押磐皇子を狩りに誘った。そして鹿と間違えたふりをして皇子を射殺した。
 皇子の供の物が右往左往しているのを見てこれも皆殺しにしてしまった。
 さらに、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子も伏兵に捕らえられて処刑された。

1.      即位と諸妃
  こうして邪魔者を成敗し、11月13日皇位についた。
  雄略天皇である。
           
葛城円大臣に代わり、平群臣真鳥が大臣に、
 大伴連室屋、物部連目が大連となった。
 この3人が皇位承継の功労者ということである。

 さて、天皇は皇后と妃を迎える。
 
 元年春3月3日 皇后として草香幡梭姫皇女
 この月
妃として葛城円大臣の女 韓姫
  これは、のちの清明天皇と稚足姫皇女を生んだ
  葛城円大臣は眉輪王とともに天皇に殺されている。
妃として吉備上道臣の女 稚姫
  これは、磐城皇子、星川稚宮皇子を生んだ
  吉備上道臣と稚姫の子たちである。
  吉備上道臣田狭が盛んに女房(稚姫)自慢をするので、その稚姫が欲しくなり、田狭を朝鮮半島の任那に転勤させて寝取ったのである。

  同じく「女」と書いても、葛城円大臣の女 韓姫は大臣の娘であり、吉備上道臣の女 稚姫の場合は臣の奥方である。
  いずれにしても、無理やり奪い取るのが流儀らしい。

妃として春日の和珥臣深目の女 童女君
  これは春日大娘皇女を生んだ

  童女君が妃になった事には次のような逸話が残されている。
  童女君はかつて采女であったのだが、天皇に見初められ一晩寝ただけで孕んでしまったという。
  やがて女子が誕生した。春日大娘皇女である。
  この子が歩けるようになった時、物部目大連が
  「この子は天皇似ですなあ」
と言った。天皇は疑った。
「一晩だけで孕む訳がない。」
しかし、追求されてみるとちゃっかりと7回もやっていたことを自白。
天皇はしっかり数えていたのだった。
  
  2年秋7月には新たな妃を巡って、こんな事件も起こっている。

    天皇が宮中に迎えようとしていた池津姫である。
    百済に新王蓋鹵(21代ガイロ王 在位455-475)が即位し、天皇は祝いに美女を献上させた。この美女が池津姫である。
その池津姫があろうことか石川楯という者と情を通じてしまったのだ。
天皇は怒り狂い、大伴大連室屋に命じて夫婦を木に張り付け、桟橋の上で焼き殺してしまった。
 

2014年10月12日日曜日

日本の臣道(1)

この夏、西尾幹二氏の「天皇と原爆」が新潮文庫から出版された。
内容はとても有意義で、括目させられる識見が満載であった。

ここで、「神の国アメリカ」という概念が非常に重要なのだが、この本でも紹介されている和辻哲郎の本が市販本になく、わずかに国会図書館でデジタル化されていたので、自分なりに現代の仮名遣いに直してみた。戦時中の国民文庫なので、そのつもりで読む必要はあります。

以下、10数回になると思うが、紹介したい。
段落も同じにしたので読みにくいとは思いますが、堪忍してください。

和辻哲郎著
筑摩書房 昭和19年刊  戦時国民文庫所蔵
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー より






(以下直訳です)


目次
日本の臣道
アメリカの国民性
1.     アメリカ国民性としてのアングロ・サクソン的性格
2.     アメリカへの移住
3.     アメリカにおけるホッブス的性格の展開
4.     アメリカにおけるベーコン的性格の展開
5.     開拓者的性格


[日本の臣道]

臣道について我々の祖先がどういうことを考えどういうことを申していたかを省みまして、それを簡単に述べてみたいと思います。
話の緒と致しまして、近頃軍人精神につき海軍の方が説明されました言葉をここに拝借したいと思います。それは昨年の18日の平出大佐の放送演説の中にある言葉であります。『大君の御為には喜んで死のう』というのは軍人精神を体得する初歩の段階である。やがてその体得が深まってくると、『敵を倒すまでは決して死んではならぬ』という烈々たる戦闘意識を信念的にもつようになる。これが海軍の伝統的精神である。というのであります。この言葉は非常に重要な意義を含んでいる、と私は考えます。大君の御為に身命を捧げるという覚悟は、それだけでも立派なものでありますが、しかしまだ自分の身命にこだわっている。自分の身命を捨てるということをさも大事件のように考えている趣がある。それではまだ十分でないのであります。自分が生きるか死ぬかということは、そんな大事件ではない。自分の担っている任務のほうが自分の命などよりは比べものにならぬほど重い。その思い任務の達成を中心にして考えると、自分の死ぬことなどにこだわるのはまだ『私』を残した立場である。そういう『私』をも滅し去って、ただ任務だけになりきらなくてはならない。これが恐らくあの言葉の意義でありましょう。そう致しますると、これは、古来『死生を超えた立場』と言い慣わしているあの境地なのであります。
このように「死の覚悟」と『死生を超えた立場』とを区別して考えますと、我国中世以来の武士の考え方について理解しやすい点が出てまいると思います。中世以来の武士の習いは主君のために身命を惜しまないという言葉で言い表されました。戦記物などに繰り返して描かれておりまするように、坂東武者は実に潔く命を捨てました。これは確かに讃嘆すべき美風であります。しかしこの際『主君』と言われておりますのは、自分の直接の主人でありまして、高くとも征夷将軍、低い場合は将軍の家臣あるいは家臣の家臣であります。武士たちはこのような主従関係の内部で身命を捨てたのであります。従って敵をやっつけると申しましても、その戦は内乱にすぎませんでした。かかる場合、主人に対する恩愛の情が非常に強烈でありますれば、何のために命を捨てるかという反省は起こりませぬが、一度自分の担っている任務の意義が反省され始めますと、武士たちはその解決に困ったのであります。そこで一方には主従の道を放擲して主人を乗り越えようとする下剋上の傾向が現れてまいりますとともに、他方では身命を捨てることの意義を主従の道よりも深いところに求める傾向が生じました。この後者の傾向からして、あるいは国初以来の尊王の道に目覚め、あるいは仏教の深い理解に到達し、あるいはまた儒教をわが物とするに至ったのであります。これらはいずれも武士たちに死生を超えた立場を自覚せしめたのでありますが、しかしその意味するところは少しずつ異なっております。

話の便宜上まず仏教と結びついた場合を取上げますが、いわゆる鎌倉仏教を作り出した根本の力は武士の不惜身命の立場であります。鎌倉仏教は仏教の日本化に相違ありませんが、しかし日本人はこの時仏教の地盤から世界宗教の代表的な類型を悉く刻み出したのであります。念仏宗に於いてキリスト教的類型を、禅宗に於いて仏教的類型を、法華宗に於いて回教的類型を。これは日本の文化史上相当重大な仕事であります。ところでこの大事業を成し遂げた不惜身命の立場はこの仕事を媒介として死生を超える立場に成熟いたしました。武士たちは自分の身命などと比べものにならない絶対の境地に導き入れられたのであります。特に武士の生活と深く結びついたのは禅宗でありました。それは武士の生活の隅々にまでも浸み込みました。一例を挙げますと、剣の技術であります。剣術は敵を斬伏せる技術でありますから宗教とまるで領分が違うと西洋人なら考えるところでありますが、日本の武士たちは剣の技術の極致を禅宗に於いて体得したのであります。剣禅一致と云われるのがそれであります。自分の命がどうの、敵の命がどうのというような小さい問題ではなく、絶対の境地に突き入ってしまうのであります。勿論これは剣の達人のことであって、誰でもがそのような妙境に達し得たのではないかも知れません。しかし戦国時代の日本の武士の剣術が全体として非常に高い程度に達していたということは認めなくてはならないと思います。
少し枝道に入りますが、この点について一つのエピソードを申し上げましょう。日本人自身は国内だけを見て記録しておりますから、名人を語るときは多数の凡手のあることを前提としておりますが、その凡手といえども、他国人に比すれば段違いに優れていたことを示す事実があるのであります。英国のジョン・デヴィス航海記(Voyages and Works of John Davis)によりますと、1605年の暮にこの有名な航海家をビンタン島付近で殺したのは日本の武士であります。デヴィスはバタニへ行くつもりで風待ちをしていたのでありますが、同様に逆風で帰国できないでいる日本人の船に出逢ったのであります。この船は70㌧位のジャンクで、中に90人の日本武士が乗っていた。その大多数は船乗りとしてはあまりにも立派な堂々とした身なりで、また皆が同輩であるかのように互いの間の行儀作法がいかにも平等であった。話し合ってみるとこれはしな支那やカンボジャの沿岸を荒らす武士たちで、自分たちの船をボルネオの海岸で痛めたために、バタニ人の乗っていた今のジャンクを乗っ取ったとのことであった、などと記されております。デヴィスの船タイガーは240㌧で6吋半の大砲を備えておりますから、見かけた船はすべて捕えて積み荷を調べ、欲しい貨物があれば取上げるのであります。日本人の船もその臨検に逢ったのでありますが、積荷は米ばかりで、しかも湿っている。でデヴィスは支那への航路について知識を得たいとの考えから、貨物は何も取上げずに、鄭重に日本人をかんたい款待した。『しかるにこの悪漢どもは、風向きや運の向きに絶望して即ちこのぼろ船で本国に帰る望みがないので、我船を取るかあるいは死ぬかだと決意した。』これは航海記の記者の解釈であります。貨物も取上げず鄭重にもてなしてやった。即ち何の害も加えなかったのに、刃向って来るとは怪しからん。責任は日本人の側にある。というのでありますが、捕えて臨検した彼らの態度がいかに人を憤慨させたかは反省しないのであります。のみならず款待と称して25-6人の日本人を英船へ呼んだ代わりに、25-6人の英人をジャンクに派して
一日中米の中を捜索させております。米の中に貴重な荷物が隠されていはしないかと疑ったのであります。この際航海記の記者は、デヴィスの失敗として日本人の武器を取上げなかったことを力説しております。英船へ呼んだ方は6人以上に武器を持つことを許さなかった。日本船の方でも、武器を取上げて皆をマストの前に集め、取上げた武器には張り番をつけて米の捜索を始むべきであった。そのことは繰返しデヴィスに注意したのであったが、デヴィスは日本人の謙遜な態度に欺かれてついに武器を取上げなかった。『かくして一日中英人は米の中を探し、日本人はそれを眺めていた。』この油断の間に日本人はすっかり手筈を整えたというのであります。こういう英人の心構えが日本人を真に鄭重に取扱ったものでなかったことは言うまでもありません。一日中米の中を探した英人たちが何物をも見つけ出しえないで日が暮れかかったとき、突如日本人たちが英人を攻撃し始めたのは、如何にも当然であります。さてここで申し上げたいと思うのは、この時の闘争であります。『合図と共に突如日本人はその船にいた英人たちを悉く殺し、また追い払った。』これが日本船上の闘争で、一瞬間に片付きました。しかるに英船上にいた同数の日本人は、それから4時間半戦っております。合図と共に彼らはケビンから打って出ました。ちょうどそこへデヴィスがガンルームから出てきたので、ケビンへ引っ張り込んで簡単に片づけ、放り出しました。そうして中甲板へ出ようとしましたが、上から船員たちが槍で防いで上がらせまいとします。それを手繰り寄せて剣で切ろうと猛烈に追って行きます。かくして半時間近く戦いましたが、日本人は3-4人やられてあと22人はケビンへ退きました。剣を持っていたのは5-6人で、あとは手当たり次第のものを武器としているのです。ケビンでは4時間以上粘り、しばしば夜具その他に火をつけて船を焚こうとしましたので、英人は遂に6吋半の大砲2門に小銃弾、霰弾、クロッスパーなどを込めてケビンに打ち込みました。それで隔壁を打ち砕いて消防を可能にするとともに、21人の日本人を文字通り打ち砕いたのであります。以上二つの船の上の闘争が武道の優劣についてよき比較を与えると思います。双方とも数は25-6人であります。それに対する味方の人数は英人の方がずっと多いのであります。しかも日本船の上では一瞬間に片付き、英船の上では船の危機が起こりそうになりました。事実この事件のために間もなくタイガーは本国へ引き返すことになったのであります。全くの段違いと思われるのであります。名もなき日本武士といえども、他国人に比較した場合にはこれほど程度が違っていたのであります。
なおデヴィス航海記の記者は右の記事の後に、『この闘争の間、彼らは逃れる望み無きに拘らず決して助かろうとはしなかった。この日本人たちのdesperatenessはそんな風であった。』と言っております。この時一人だけは海へ飛び込んだのでありますが、泳ぎ帰って救い上げられ、我々は英船を乗っ取るつもりであったと白状しました。しかしそれ以外には何も言わず、早く殺せという態度をとりました。この日本人の態度、全然命を惜しがらぬ態度を、英人はdesperateと呼ぶのですが、ここにこそ姿勢を超えた立場があるのであります。名もなき日本の武士たちすらも、右のごとくこの立場を我が物としていたのであります。

しかしこの立場におきましては、武士たちは具体的な任務を自覚することはできませんでした。絶対の境地なるものは、具体的な特殊な任務の実現として己を現してくるのでなければ、単に抽象的に過ぎません。その結果、無数の優れた武士たちが国内で互いに殺し合い、国外では無駄死に致しました。そうしてヨーロッパ人よりも2-300年も立遅れることになったのであります。
(つづく)





2014年10月11日土曜日

八百万の神々の時代をふたたび

日本の古墳時代の昔は、八百万の神々が宿っていた。

奈良盆地に都を定めるようになった飛鳥時代、神々は放逐され、仏の道が始まった。
仏道は、硬い鉄器の文明を伴って、青銅の文化を滅ぼし、外来の病気をまき散らした。
「生口」と称する奴隷制度も輸入された。

戦国時代は世界中が戦争をしていた。
日本にも鉄砲が伝来するとともに、切支丹が日本を襲った。
切支丹は戦いの宗教。異教徒を滅ぼし、支配する。
切支丹は銃を携え来たり、富と女を漁った。
伝染病ももたらした。大谷行部はハンセン病、加藤清正は梅毒に冒された。

信長は好いとこ取り(鉄砲)で済ませようとしたが、
鉄砲の代金は金銀・女で支払った。
秀吉はキリシタンのマネして朝鮮半島へ植民戦争、
家康は基督教=征服主義、他教・他民族抹殺主義に恐れをなして、鎖国政策に、
そして神仏混交で基督教に対抗するが、、、

明治維新は基督教に助けられた、基督教的一神教としての天皇教革命であった。
廃仏毀釈をし、神仏分離し、ひたすら天皇を「現人神」と崇め出した。

しかし、他者を排斥し、他者の滅亡を願うのが一神教の真骨頂!!!
自分たちの「神」以外は悪魔だから滅ぼすべき存在と考えるのだ。
映画「創世記」「十戒」「ソドムとゴモラ」「ノア」などの一つでも見ておくことだ。
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昔、卑弥呼は「共立」せられていた。
八百万の神々に支えられていたということだ。

今、再び「共立」の世界観が求められている。







2014年10月7日火曜日

空の4号機燃料貯蔵プールから何を運び出しているのか

「とある原発のメルトスルー」というサイトが今月初めにメルトダウンしたらしい。

メルトダウンの原因は福一4号機の「真実」が原因らしい。

現在、東電と政府は4号機燃料プールから「使用済み燃料棒」を搬出中ということになっているが、実はこれが大嘘であることを指摘したがために、「彼ら」の怒りに触れたようである。

先日は、朝日新聞が従軍慰安婦問題その他でバッシングされ、謝罪に追い込まれたが、「世論」は廃刊まで追い込もうと躍起である。

朝日バッシングの真意は、ひょっとしたらこの記事にあるのかもしれない。

4号機燃料貯蔵プールは実は「空」だった。2011.8.20ごろの朝日の記事より。
よく読むと、そう書いてある。

これも「誤報」??????????????

原発は地震と台風、環境破壊も起こした

めげ『猫』さんの秀逸な記事がある。

「原子力と災害」と題したページであるが、原発と大雨、地震などについて考察している。

原子力発電所は非常に巨大な熱の発生源であり、熱効率は30パーセント。
残った熱、大部分の熱は現地に捨てられている。その影響について述べている。
柏崎刈羽原発の一日分の排熱エネルギーは、なんとM6クラスの地震1個分に相当するのだそうな。

筆者は2011年7月末に福島の友人と近畿旅行に出かけたが、友人が僕の新潟に向かおうとしたその日、大変などしゃ降りに会い、彼は関越も磐越も通行止めの大被害となっていたのだ。
もっとも、これは全原発停止中のこと。

思えば、その昔の8.5水害なども柏崎刈羽原発のなせる業だったのか!!

そして、あの「中越地震」さえも!!!
いや、福島も同程度の巨大原発であった。
福島原発の排熱がどれだけ影響したのかは計り知れない。

それに、原発の排熱エネルギーが地球環境異変、海水温上昇を引き起こしてきたことは確実だろう。二酸化炭素の影響…などというのは地震の鳴動を鼠のちょろちょろに置き換えて誤魔化すようなものだ。

是非、ご一読賜りたい。


2014年9月29日月曜日

消えた水玉模様

御岳山の噴火ニュースを見ながら、昔のことを思い出していた。

僕は2011年1月4日に奥多摩の御岳山に登った。その時の様子はブログに載せている。
途中の岩場にカラス天狗のような像が祭られていて、その写真を撮ったら虹色の水玉のようなものが写っていた。これも載せた。

年末(東日本大震災の前年末)に、友人の久保さんから

「福島-宮城の県境にある万歳楽山について、(宮内省の人?)から連絡があったのだが、近いうちにどえらいことが起こるから注意して調べておいてください」

という連絡が入っていた。

そして、インターネットで調べたりいろいろして、その19日に 「萬歳楽山―呪文の山はイヤシロチ」 という本を買い求めて読んでいる。



面白そうなことがたくさん書いてあり、僕のとった水玉模様の写真と同じようなものが紹介されたりして、多少嵌まっていったのだが、、、、

しかし、その後転勤で東京から柏崎に移動することになり、僕の身辺はそれどころではなくなっていた。

柏崎で迎えた3.11。
その本のことは忘れていた。
自分のこと、友人のこと避難、不安、様々な思いに乱れていた。
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そして今、改めてこのことを思い出した。

あの時久保さんが
「どえらいことが起きそうだ」
「日本がひっくり返る」
と言っていたこと。

それを
宮内省の人?
万歳楽山
に結び付けていたこと。

今回の火山爆発のことも含めて、改めて久保さんに聞いておく必要がありそうだ。

そして、2011.1.18再び御岳山に撮影に出かけた、、、、、、

水玉模様は、
消えていた。





2014年5月2日金曜日

震災・原発事故の避難者結果 「心身不調」約7割が訴える


震災・原発事故の避難者結果 「心身不調」約7割が訴える

2014年04月28日 19:53FCTニュース
 震災と原発事故で避難している人を対象とした県の調査で、心や体の不調を訴える世帯が7割近くに上る事が分かりました。
 調査は、県内外に避難しているおよそ6万2,000世帯が対象で、そのうち、2万世帯あまりが回答しました。
 その結果、避難者のおよそ4割の世帯が2か所以上に分散して生活している実態が明らかになりました。
さらに、心や体の不調を訴える世帯は7割近くにのぼっています。
 その内容は「何事も以前より楽しめなくなった」や「よく眠れない」との回答が多く、長引く避難生活の影響が生き甲斐の喪失や不眠症などにつながっているとみられています。
 県で調査結果をもとに支援対策を急いでいます。

2014年4月18日金曜日

フクシマと人類の破局が迫っている

フクイチはコントロール不能の場所がどんどん増えて、配管のお化けのような施設全体が廃墟化していくのは明白である。

したがって、近い将来、フクイチ全体が人間の手の届かないエリアと化す。
原発は自らの意志でもあるように暴走を始め、これを止めることのできる者は地上に存在しない。

政府、役人、大商人たちはこのことを知っており、時間がない中、海外逃避をしてなおかつ優雅に暮らせるよう、なりふり構わず天文学的金額の蓄財に走っている。

12兆円の郵政株の売却、なりふり構わない増税、原発輸出と核のゴミ引き受け、海外諸国への援助や融資までも実態は関係企業への迂回資金、巨大権益を有する技術の海外移転(ステルス技術、スタップ細胞、リニアモーター技術ほか多岐にわたる)、TPPなど、驚天動地の大まやかしがなりふり構わずに進行している。

主導しているのは、「日本の主」殿こと天皇家、幕末の長州勢の末裔たち、野田ブタ一派の民主党、自民党、公明党、善人面する公務員たち。。。。。彼らは金のためなら何でもする。国や国民など、彼らにとっては金集めの道具に過ぎない。

------------------------------------------

今、日本はしゃぶりつくされようとしている。
あとは食べられない大骨小骨を吐き出すのみの段階に来ているのだ。

今の日本を見てみるがいい。
すべてが、この方程式の中で成り立っている。

日本人総奴隷化計画は間もなく完成するだろう。
そして、日本またはその半分は、消滅する。
----------------------------------------

福島では、あの汚染地帯に元の住民たちが戻されようとしている。
やがて死にゆく人の、「中治り」とでもいうべき光景だ。
フクシマの破局はもう、すぐそこまで迫っているというのに。

あのチェルノブイリは、アメリカ発日本も資金援助テロで、アメリカのものになろうとしている。
ウクライナがアメリカの手に落ちた時、世界は破局への第三の扉を開けるだろう。








2014年4月16日水曜日

ウクライナの真実

紛争が起きていることは確かだが、誰も真相を語ろうとはしない。

アメリカを中心とする欧米がほしがっているもの、
それは、なんと、チェルノブイリなのだ。

フクイチでは現在も大変なことが進行中だが、この地上のムラの住人たちの関心ごとの一つが、言わずと知れた「チェルノブイリ情報」なのだ。
こんとろーる
この情報を100%コントロールすれば、福島から放射能の恐怖をゼロにした、デーモン山下教授のように、チェルノブイリでも放射能を笑い飛ばすコントが流行することになるだろう。

アメリカ・イスラエルの枢軸国はこんなことを平気でたくらむ「神」のような人々の国なんだ。
所詮、われわれ庶民とはヒェラルキーが違うーーーというところか。

この四月五月は人災か自然災害か知らぬが、どえらいことが起こりそうである。

2014年4月13日日曜日

スタップ細胞の自然治癒力

小保方細胞は厳然として存在する。

ちょっとしたけがや病気なら、舐めて治せる。
こんなことは「医学」以前の「常識」だ。

これを、医者や薬メーカーは認めたくない。
欲に溺れるとこんなことすら見えなくなるらしい。

小保方細胞とはその程度のものだ。
どんな生命にも備わった、ごく自然な事実。
欲に惑わされた人々には、こんな当たり前のことすら見えなくなるらしい。
そして、ノーベル賞のごときでコロッとだまされる。

そろそろ、学者や政治家やお役人に振り回されるのはやめにしようぜ。

「日本の国益」は「日本国民の利益」とイコールか?

日本国は、織田信長の時代から、欧米諸国による地方勢力への武器供与によってめちゃくちゃにされてきた。明治維新もその流れの中にあり、「明治政府の復活」をもくろむ安倍政権・自民党においても同じ流れの中にある。

飛鳥時代以来というか、そのずっと前からというか、「暴力団が国を支配する流れ」は日本を含めた世界の潮流である。

歴史を学んだ人間はみんな知っている。 
「殺戮によって支配する」の
が人類普遍の流れなのだ。
平和主義者や殺戮を忌避する者たちに「平和」は存在しない。
それが人類の歴史だ。

一見平和や人生の安寧を願うがことを目的とするようなそぶりを見せる医学にしても、ナイチンゲールやアンリ・ジュナンを見ればわかるように、「軍隊の医学」がそもそもの発祥なのだから。

「国」とは敵味方を区別する概念でしかない。
「国益」とは「支配者の利益」でしかない。
国民とは支配されている人々のことだとわかれば、歴史と社会を見る目が変わってくるだろう。

2014年1月22日水曜日

「もったいない」はやめよう

今、川崎のホテルにいるが、碌に暖房は効かないわ、風呂はぬるいわ、毛布は薄いわで、布団の中で膝抱えて寝てるしかない状況です。

出来の悪いインターネットのせいでしょうか、会社で指定したホテルは最悪です。
こんなホテルが検索上位になる。。。。やめてくれ。
レミゼの宿に泊まった気分。

市民に「もったいない」を強要する国ニッポン。
逃げてしまいたいけど、金がないしね。

日本はすでに滅びてしまった

先の戦争で無条件降伏した日本である。
もはや「国」じゃない。

中国や韓国からも、アメリカからも「国」としては認められていないようだ。
その証拠が尖閣であり竹島であり辺野古なわけだ。

何を言ってもしょうがない。
長州支配の日本、天皇家の日本がそうさせてしまったのだ。

明治日本で白人たちを指導者に仰ぎ、
戦争で無条件降伏した国が日本だ。

もはや何もすることができないのか。
終戦ですでに日本は滅びた。
これからは日本人魂まで滅びてしまうのか!!!

平成の大政奉還を!!!

最悪の結果が予想される。

枡添氏、田母神氏がなった時が最悪なのだが、ひょっとしたらもっとひどいことが起こるかも。

それは、上の二氏以外が当選した時、鳩山政権時や前都政崩壊のように、悪徳商人。政治家。官僚連合によるめちゃくちゃバッシングの後、スーパーヘビー級の安倍金太郎あめ的都政が実現してしまわないかということです。

いずれにしても、安倍日本は急速な破局にまっしぐら。
まるでブラックホールに吸い込まれるような感じです。
もはやなすすべなしか?

日本滅亡は無条件降伏による天皇および戦犯たちの無罪放免から始まったこと。

もはや、明治天皇の血族には引退してもらって、皇室を北朝に戻し、明治から昭和の戦争の世紀をもたらした長州閥に雲隠れしていただく以外に打つ手なし。
平成の大政奉還だ。。。

2014年1月14日火曜日

安倍晋三海外逃亡中

総理大臣様の「外遊」が止まらない。

原発輸出外交
ODNで日本企業へ利益誘導外交(国民の税金つかいまくり)
世界へ武器輸出外交

国内で何が起ころうが、
国際関係がどう動こうが、
そんなこたぁ知るもんか

東京にいたら
被爆が怖い
デモが怖い
官邸のお化けどもが怖い・・・・

-------------------------------

そういえば、チェルノブイリ後のゴルバチョフ
リゾートで「休養中」にエリツィン様にしてやられましたよね。
でも、逆に「吊るし上げ」を食わなくても済みました。
その手があったか----------


いつぞやはこんなこともありましたね

2014年1月10日金曜日

超怪しい日本ブーム

去年は日本ブームでしたね。

富士山の世界遺産登録。
東京オリンピック開催決定。
日本食のユネスコ無形文化遺産登録で「お・も・て・な・し」。

なんかこれ、
「八重の桜」「JJJ」東北観光キャンペーン。
楽天とかスポーツで応援。
福島を食べて応援。
に似てない???

実は「表無し」の「裏だらけ」 ?

猪瀬元知事の5000万円が、知事選費用「50億円」に化けて、
「東京」が頑張ったことを政府が「おとりあげ」 !!

キリスト教は是か非か

「キリスト教 地下で広がる」  読売新聞 1月10日「伏流-宗教と世界」
中国「国より主にすがりたい」
  非合法の教会
  地下信者1億人
  
北朝鮮「世界最悪の弾圧国」
  人民の阿片
  政権打倒運動


日本では、鉄砲伝来とともにキリスト教が伝わり、「宗教」とともに大量の鉄砲が金銀、女性などの代価の下輸入された。


鉄砲の破壊力は凄まじいものだったが、火薬原料はバテレンの独占市場だった。
鉄砲とバテレンの合言葉は、大量殺戮、天下統一、完全征服だ。
やがて天下が治まると、バテレンは宗教とともに出島に封じ込められるものとなった。
安定の妨げになるのがキリスト教=鉄砲だからだ。
一朝有事の際の原料調達の道のみ開けてあったのが江戸時代だ。

西洋文化との接点は、「蘭学」のみの時代が続いた。

明治革命とともに、再び大量の兵器とともにキリスト教が日本全国を埋め尽くすことになった。
昨年の大河ドラマ「八重の桜」に登場した新島八重はその象徴的存在だ。

「ご禁制」であった鉄砲、キリスト教・・・両方を体現する存在となった。
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世界を見てみよう。

キリスト教の歴史は戦争と征服の歴史だ。
戦いを拒否したのはひとり、教祖のキリストのみだ。

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白人文化がギリシャに端を発するとすれば、ギリシャ哲学のいう最も崇高な行為は「戦争と略奪」である。
「山賊」「海賊」は英雄なのである。
ロビンフッドもドレーク船長も。
白人たちにとって異民族であったアラブ人の宗教キリスト教に「世界統一」の野望が合致するのを悟るやいなや、これを盗んで自分たちの戦争宗教にしてしまった。

いつの間にか欧州白人たちは戦闘士のみの集団と化していった。

やがて白人の住む場所から異民族たちは次々と消えていった。
旧北欧人、旧東欧人、旧スコットランド人、アメリカインディアン、インカ・アステカ人、・・・。

我が国からアイヌ人たちが最後の、そして最大の迫害を受けたのも、キリスト教徒がもたらした鉄砲によるものだった。
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明治政府が神仏分離を行ったのは、「神」を最高神に祭り上げたいからである。
そして、キリスト教の最高神に日本と同一の文字「神」をわざと混同するように使用させた。

この瞬間、日本神道はキリスト教と同化した。
そして、戦争、殺戮、略奪・・・へと邁進していった。
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戦争、殺戮、略奪がしたいなら、キリスト教ほど格好の隠れ蓑はない。
(フランシスコがいくら善人ヅラをしても、戦争、殺戮、略奪趣味の白人の隠れ蓑にすぎない。本当の善人なら、「汝殺すなかれ」を信徒に守らせるべきだ。しかし、本心がそこにないからできない。)

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ついでに言うが、「日蓮の宗教」なども戦争、殺戮、略奪性の高い宗教なるが故に、キリスト教とともに、かつての長崎出島のように、地域限定特区に閉じ込めて害悪を撒き散らさないようにすべきだろう。

そう言う意味では、ロシアや中国、北朝鮮のキリスト教政策は正しい。
非白人社会だからだ。