2014年12月26日金曜日

小手子と女神山

月舘町伝承民話集から再び引用します。今回は長文ります。

月舘町 伝承民話集
昭和49年4月1日
   ■発行  月舘町教育委員会
   ■編集  月舘町史編纂委員会
           福島県伊達郡月舘町
   ■印刷  北 日 本 印 刷
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10010.003/html/00144.html

小手姫の事蹟と女神山(史考)

 小手姫はどんな家柄に生まれ、どんな身分の方であったかを、天皇の系譜及び、大伴家の家譜を調べて見た。

1、日本書記崇峻天皇のころ(32代天皇)
  崇峻元年春3月、大伴糠手連の女小手子を立てて妃となす。

1、敏達天皇12年、百済より日羅等吉備国児島の屯倉に来る。朝廷大伴糠手子連をして慰労せしめ任那(みまな)再建の策を諂問せしむ。(日本書紀巻二〇に依る)

1、小手姫の祖父金村は継体天皇の擁立者であり安閑、宣化の三朝に亘り大臣として全権を振い、欽明の初め物部氏は蘇我の馬子によって失脚し、その後蘇我権勢の独壇場となる。

 天皇家の系譜から見ても、大伴家の家譜から見ても小手姫は天皇家と婚姻するだけの資格ある豪族の生まれである事がわかる。ではそのような家柄に生まれて何故蚕や糸機の技術が具えられたか疑問となるが、百済より一生に三度替る宝の虫として欽明天皇12年に献上され天皇もこの虫をご覧になった記録もあり、わが国の蚕の始めとされる。当時は皇后も皇妃も自ら蚕を飼い糸をとり機を織って皇子や皇女の衣とした事は歴史上歴然とした事実であり、また百済から来た技術者に付いて習われるのは朝廷と、ごく一部の豪族の家 庭であったであろう。そうした環境にあった小手姫は11、2オ頃よりその技術を学ばれた、。従って蚕の飼 育、糸とり、機織りまで十分に技術を身につけておいでになったと考えられる。



 ではだれでも考える大和の皇后が何故こんな地方に来られたかについては、崇峻天皇5年11月13日寝殿に於て蘇我馬子の家来、帰化人東漢駒に背中より一突きに刺されて殺された。ときに蜂子皇子32オ。この皇子が居る限り馬子は枕 を高くして眠る事は出来ない。蜂子皇子の命は風前の灯である。父天皇の葬儀も何も考える暇なく、その夜 の中に従者3、4名と馬で飛島を脱出した。(峰子皇子伝記)然し蜂子皇子の行く所、身をかくすところは常 陸、越後より西の地域には全くない。ただその当時東国(今の福島、宮城より東北の国)は大和朝廷の支配を 受けなかったので、この東国だけは蘇我氏の権力も及ばなかった。逃避するところは東国より外になかったのである。

 小手姫は東国に逃れた蜂子皇子と一緒に平和な生活を望んで止まなかった。ために実父大伴糠手も老躯に 鞭うって娘や孫の行先の落ち着きを見届けるべく同行する事になったのであろう。また大伴糠手としての旅 行が危険だったから秦峯能と名を替えたのである。この地方に残る濫觴記や地理誌に、あるいは古書に蚕神 機織神の縁起に出て来る秦峯能は大伴糠手の世を忍ぶ替名であるとも記している。
 
 ではその当時の旅という のはどんなものだったろうか。もちろん今の様に紙幣とか通貨はない。これら通貨の出来たのは和銅年間で、 元明天皇の御代小手姫より約120年もの後である。旅をするにはみな物であって、例えば珍しい織布とか器物とかの品物であり、更に高貴の方々の食器とか着替えの様な品物となるとそれだけでも相当の量であった ろうし、その費用だけでも数多の人夫を必要としたのであろう。

 更にこうした方達の一日の旅程はどの位歩 かれたろうか、筆者は1日2、3里位ではなかったろうかと推測しているが仮りに常陸から来たとして30 里、雨風の日もあったとすれば12、3日は掛かる事になり宿の礼食事の代まで品物となるとそんなに多人数で多くの品は扱って来る事は不可能に見える。女神山中腹に仮屋を建てて住む事になったのも、旅を続け られない事情の為であったと推測して居るが、他に病気とか種々の原因だったとすれば再びこの地方から移 動される筈だし再出発に関しての話は全然伝わっていない。以上の事から見て小手姫が皇后であった事は間 違いない事実である。だが女神山麓の各部落にも、広く語り継がれた伝説にも全然この事実は語られていな い。それは父の大伴糠手のように名は替えなかったけれども、その身分については極秘とされたからであろ う。更に機織り神及び養蚕神社縁起等の附会の説が紛れこんで益々昏迷したのであろう。

 例えば川俣の機織神社縁起に(又は小手濫觴記)

 人皇16代仁徳天皇の御代大和国高市郡川跨の里に庄司秦の峰能という人あり、この人、天皇の命を蒙 り一子小手姫を伴えてこの地に来り桑を植え蚕を飼い絹を織る業を教えたり、朽人山より西北の諸村を総称し て小手郷というは小手姫より出でたるものにして」と記している様な訳で、更にこの小手姫を48代称徳 天皇の時代としたものもある。この称徳天皇の侍医で百済から来た小手子という女医があり称徳天皇亡後、都に居る事が出来なくなって、この小手郷の「飯坂村尼舘に住す頗る名医(霊人ともいっている)にして国中 の人々より学信せらる」とあり、この小手尼が小手姫が尼になったのだという附会が流れて居たところもあ ったが、これは昭和43年の歴史読本に小手尼の事が詳しく述べられているが、小手姫と小手尼の年代には明らかに126、7年の隔たりがあるのに一ツのものに混同された記録が何時の時かに書き遺されたのである。記録する事の大事な心構えというものが痛感させられるのである。

 川俣町大字秋山一メ森、佐藤長明氏所有の小手姫記事及小手姫古事による。

 小手姫は常陸から来られた事。女神山の中腹堂平にお住まいなさった事。蚕糸機織りの産業を当地方に教え られた事。として47オで堂平で亡くなられた事。亡くなられたのは3月15日であった事。崇峻帝の刺 殺された日や寝殿に於て帰化人東漢駒に一突きに刺殺され、蘇我の手の者によって即夜倉梯岡に葬られた事まで詳しく書いていながら、小手姫の葬られた場所は書いていないのである。

 小手姫のお墓は、女神山の頂 上にあるという伝説は山麓の各部落に残っているが記録には見当らない。昭和44年(女神山出版後)飯坂町医王寺において発見、「小手姫は女神山中腹に於て亡くなられその遺骨は該山の頂上将軍岩の傍に葬る」 の記録が初めて見せられたのだった。

 福島市にお住まいの佐藤健次郎先生蔵書「福島県古事詳解」に福島県で一番早く絹織物を税として出した のは秋山郡である。秋山郡とは今はよくわからないけれども川俣と飯野の中間辺りだろうと思われる。続いて往古伊達郡に茶山という山があったのだが今ではわからないと記載されているが、秋山郡が郷とすれば地 形的にも川俣と飯野の中間の字句も当ってくるし、女神山の山桑から見ても絹の生産第一号は、小手姫に由 る直接ご指導を受けた人たちの数量はどの位だったかは分からないが、税として収納された時の歓呼が如何に大きなものだったかは想像に余りある事だったに相違ない。

 此の恩恵の産業が「天安2年(今より1014年前)には桑苗及蚕種類を上州に遣わし蚕飼いを教えたり。」 (小手濫觴記)と記載する程に、小手姫より350年後には伊達は蚕種の本場として蚕飼いの指導者として上州ばかりでなく四方に、広く活躍する程になったのであろう。

 大正十年頃に京都市綾部の村島渚氏は「全国蚕神考」という本を発刊されている。その一部を掲げ紹介すると、

 1、機 織 神 社  小 手 姫    祭神
 1、蚕 影 神 社  赫 夜 姫   (祭神欽明天皇女)金色姫
 1、白 瀧 神 社  白 瀧 姫    祭神
 1、犬 頭 神 社  犬 頭 大 明 神

小手姫、赫夜姫、白瀧姫が地方産業の開拓者であるという事は疑う余地がない。その何れもが婦人であると いう事も注意を要する点で、これは歴史上の蚕神に於けるが如き蚕糸を業とする氏族が、歴史上著名なその一族の祖先または首長たりし人を神として祀ったというのとは趣を異にし、これは歴史上には全々無名な蚕 糸業の実際家を祀ったのである。(原文のまゝ)以上の様に養蚕、機織りの始祖として認めているのである。

1、女神山頂の祭神

 小手姫記事及古事と飯野佐藤氏文書にある、女神山頂の祭神は伊佐奈岐、伊佐奈美、多久機千々比呼命と 小手姫の四柱の神が祀られている事を教えているけれども、此の神々をお祀りしたのはだれなのか。一メ森 文書の頂上に二種の神、伊佐奈岐、伊佐奈美を祀り置きし。と聞くより小手姫直ちに頂上に登り参拝す。とあるのは以前より祀ってあったというのだろうか。

 小手姫、糠手、錦代皇女達の創意で代々の大伴家の祖先よりの氏神を頂上に従者をして祀らせ、お祭りし て来た事の報告によって直様お参りしたという事の意味ではないかと考えられる。それは小手姫以前に、こ の地方に大和の国初めの説話、伊佐奈岐、伊佐奈美の神を知っていたとは考えられないからである。多久機千々比呼命は、その後に小手姫の機織りの始祖として信仰した神を小手姫が亡くなられた後に伊佐奈岐、伊 佐奈美の二神と共に三柱とし、小手姫を別にお祀りしたのであろうと推測しているが小手姫が開いた山だから一名女神山ともいう。の字句は蓋し真実であろう。

修験道より見た女神山

 女神山は今でも修験道では水雲山であり山全体をご神体として水雲山大明神である。この水雲山大明神をお祀りしたのは、役(イン)ノ行者小角といわれ、その小角にまつわる伝説も多い。

 上手渡小志貴神社宮司、渡辺淳 氏所蔵本に、役ノ行者小角が女神山(その当時の山名不詳)登山の縁起がある。その文による蛇頭石(現在カ ド神様)を祀り水雲山大明神の御魂として雨乞い石を祀ったといわれ、更に五行の神、火水木金土の神を祀り 併せて熊野大神をお祀りした事が記されている。役の小角は出羽三山史によると大和国茅原村の人で舒明4 年生まれ、幼にして鬼神を駆使人をして恐れしむ。故に若くして讒に逢い朝命により伊豆に流されその間、 鬼神を使って富士箱根を一日に飛行回峯したと伝えられる。前、熊野に入り行を続け熊野信仰を開く。「天智 4年7月出羽三山を回峯熊野大神を祀り後、奥羽の秀峰霊山を回峯して大和に帰ると」この天智4年は小角 の年36オに当たり、あらゆる深山幽谷に荒行を続け神の御姿を心眼に拝し仏陀の御影を行間に顕じ、そ の御心を感得して熊野修験の大道は打ち立てられつつあった時期の様に思われる。

 役ノ行者小角の羽黒探訪が、こうした時季とすれば、更に崇峻天皇の皇子蜂子の数十年に渉る苦行の末に 出羽三山を開き諸人の苦悩を除き能除太子と尊称された根元を理解する必要があったからではないだろうか 当時羽黒山第二世は福島県信夫の里より蜂子皇子の晩年に弟子となって入山した弘俊である。年代を調べて見ると大体62、3才か、と推定しているが、峰子皇子の身分、母の小手姫妹の錦代皇女、祖父大伴糠手 の小手郷に於ける住居、万民渇仰の中に亡くなられた年令、月日、場所、御墓の位置等も詳しく語られたろうし、皇子峰子の遺法も話し合われたであろう。羽黒修験道から見ても役ノ小角の果たした役割は非常に大きい。現在も羽黒合祀殿の向って左の客殿には能野大神(小角が勧請した)が祀られ末社として建角身大神と して役ノ行者小角が祀られているのを見ても、三山との関係の深さがわかるのである。

 こうした繋がりから見てくると役ノ小角の女神山に登ったのは、大和の皇后小手姫のお墓があるからであ って、蜂子皇子の存生中に果せなかった母小手姫達の墓所と鎮魂の祈りを捧げるためであったと推察してい る。そして小手姫の数奇な運命の悲惨と遺された偉業も行雲流水にも似た流転の終点となった一ツの墓に、 その御霊よ安かれと祈りながら、頂上の大石そのものを小手姫の御霊代として水雲山大明神と、お祀りしたのであると考えているが、この大石に登れば必らず雨が降るのも高貴な御魂を汚す心ない仕業に姫自からが涙で浄められる故であろうか。
 筆者は小手姫の御陵の大石を御魂代としたのも役ノ行者小角の水雲山大明神の御魂代とした大石も、共に 小手姫の御霊を祀られたものであると、考えている。

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