2014年10月14日火曜日

崇峻の陰謀①

天皇とは祟り神の一族なのだろうか。
この物語は、日本天皇史上初めて、そして最後の、臣下に暗殺されたといわれる崇峻天皇の物語である。
しかし、実は崇峻は殺されてはいなかった…
物語は、古代史と考古学が初めて一致したとみられる大王ワカタケルから始まる。

ここに一人の強力な祟り神がいた。
彼は生まれながらにして周辺に存在する人間、兄弟、家臣その他多くの人々に理由なく祟りを起こした。いや、理由はある。
人はそれを権力欲とも生存本能ともいう。
どちらでもよい。
それが歴史なのだから。
まずは日本書紀の記述を眺めてみることにする。


日本書紀 第14章 雄略天皇 大泊瀬稚武天皇
 
図はWiki雄略天皇より借用


1.     眉輪王の父の敵

穴穂皇子が皇位に就かれ安康天皇となり、都を大和石上に移されたころの話である。

大泊瀬稚武皇子は反正天皇の娘たちをわがものにしようとされた。
   娘たちはこれを聞いて、
「あの方は恐ろしいお方。夕べにお目にかかっても、翌朝には殺されかねません。いやです。」
といって皆身を隠して逃げてしまった。
   
安康元年春2月1日。
   安康天皇は大泊瀬稚武皇子のために大草香皇子の妹幡梭皇女を嫁がせたいと、根使主(根臣)を遣わして大草香皇子に頼まれた。
   大草香皇子はたいそう喜んで、家宝の押木の球蔓を返礼として渡した。
   ところが、この根使主はこの押木の球蔓欲しさに悪だくみをしたという。
   「大草香皇子は勅命に従わず、『妹を妃に入れることはできない』と申しています。」
と、安康天皇に復命したものだからたまらない。
   安康天皇はかんかんに怒って、大草香皇子を攻め殺してしまった。 
   こうして押木の球蔓は根使主の物となった。
  
 そして、なんと大草香皇子の妻中蒂姫は妃として安康天皇の宮中に入れられ、大草香皇子の妹幡梭皇女は大泊瀬稚武皇子に娶あわされた。

中蒂姫はひどく寵愛され、皇后に遇された。
中蒂姫はすでに大草香皇子との間に眉輪王を生んでいたが、母子ともに宮中で溺愛されることになる。

        そもそも穴穂皇子(安康天皇)は大草香皇子の妻中蒂姫に横恋慕していたのだろう。大草香抹殺の結果、女は皇子の物に、宝は根臣の物になった。
        
        穴穂皇子が皇位を継承した事情も振るっていた。
そもそも允恭天皇の皇太子は木梨軽皇子であったが、木梨軽皇子は妹の軽大娘皇女を犯すほど淫乱であったことを理由に、穴穂皇子に滅ぼされているのである。      
 (古事記によれば、木梨軽皇子は伊予の温泉に流刑になった。妹の軽大娘皇女は衣通姫といわれ、その肌の輝きが衣を透き通って見えるほどの女性だった。結局二人は流刑地で心中して果てたという。)

   大泊瀬稚武皇子は允恭天皇の第5子である。
   安康天皇は第2子であるから、ワカタケルは弟ということになる。
   権力と女子を求める強欲は兄をはるかに凌駕している。

彼が生まれた時、神々しい光が御殿に充ちた。
成長につれ、人に抜きん出て逞しさを増していったという。


  安康大王3年8月、安康天皇が山の宮に温泉を楽しみに出かけられ、宴会を催してくつろいでいた時、天皇は皇后に
「私は汝が愛おしくてならぬが、汝の連れ子の眉輪王がこわい末恐ろしい。何しろ彼にとって俺は父の敵だからな。」
とつい口を滑らしてしまったという。
眉輪王はまだ幼少7歳ではあったが、その物語を全部聞いていた。
天皇がいい気持になって皇后の膝枕で転寝を始めたところ、王は遂に安康天皇を刺し殺してしまったのだという。

眉輪王による大草香皇子の「仇討」といわれるが、皇后中蒂姫にとっても同様仇であった。この親子は敵討ちの機会を日ごろから狙っていたのだ。
もっと言えば、二人を唆した者、真の下手人がいるのかもしれない。
それが大泊瀬稚武皇子ではなかったと誰が言えるであろうか。
のちに皇后となる草香幡梭姫皇女は大草香皇子の妹であり、彼女にとって安康天皇は兄の仇でもある。
草香幡梭姫皇女と大泊瀬稚武皇子、皇后中蒂姫が結託して犯行に及んだというのが真相ではなかろうか。

 安康天皇暗殺の報を受けた大泊瀬稚武皇子はまず自分の兄弟たちを始末する。
 皇子の行動は早かった。
 この機会を準備し、待っていたのだ。
 
 最初に兄の八釣白彦皇子を自ら切る。
次に坂合黒彦皇子も問い詰め、眉輪王ともども殺そうとする。
危機を感じた皇子と眉輪王は葛城王円大臣の家に逃げる。
大泊瀬稚武皇子は、円大臣が皇子と王の引渡しを拒んだために、家に火をつけて焼き、皆殺しにしてしまった。
 
1. 市辺押磐皇子も謀殺
 市辺押磐皇子はかつて安康天皇によって皇位継承者に指名されたことがあった。
 目の上のたんこぶである。
 冬10月1日、大泊瀬稚武皇子は市辺押磐皇子を狩りに誘った。そして鹿と間違えたふりをして皇子を射殺した。
 皇子の供の物が右往左往しているのを見てこれも皆殺しにしてしまった。
 さらに、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子も伏兵に捕らえられて処刑された。

1.      即位と諸妃
  こうして邪魔者を成敗し、11月13日皇位についた。
  雄略天皇である。
           
葛城円大臣に代わり、平群臣真鳥が大臣に、
 大伴連室屋、物部連目が大連となった。
 この3人が皇位承継の功労者ということである。

 さて、天皇は皇后と妃を迎える。
 
 元年春3月3日 皇后として草香幡梭姫皇女
 この月
妃として葛城円大臣の女 韓姫
  これは、のちの清明天皇と稚足姫皇女を生んだ
  葛城円大臣は眉輪王とともに天皇に殺されている。
妃として吉備上道臣の女 稚姫
  これは、磐城皇子、星川稚宮皇子を生んだ
  吉備上道臣と稚姫の子たちである。
  吉備上道臣田狭が盛んに女房(稚姫)自慢をするので、その稚姫が欲しくなり、田狭を朝鮮半島の任那に転勤させて寝取ったのである。

  同じく「女」と書いても、葛城円大臣の女 韓姫は大臣の娘であり、吉備上道臣の女 稚姫の場合は臣の奥方である。
  いずれにしても、無理やり奪い取るのが流儀らしい。

妃として春日の和珥臣深目の女 童女君
  これは春日大娘皇女を生んだ

  童女君が妃になった事には次のような逸話が残されている。
  童女君はかつて采女であったのだが、天皇に見初められ一晩寝ただけで孕んでしまったという。
  やがて女子が誕生した。春日大娘皇女である。
  この子が歩けるようになった時、物部目大連が
  「この子は天皇似ですなあ」
と言った。天皇は疑った。
「一晩だけで孕む訳がない。」
しかし、追求されてみるとちゃっかりと7回もやっていたことを自白。
天皇はしっかり数えていたのだった。
  
  2年秋7月には新たな妃を巡って、こんな事件も起こっている。

    天皇が宮中に迎えようとしていた池津姫である。
    百済に新王蓋鹵(21代ガイロ王 在位455-475)が即位し、天皇は祝いに美女を献上させた。この美女が池津姫である。
その池津姫があろうことか石川楯という者と情を通じてしまったのだ。
天皇は怒り狂い、大伴大連室屋に命じて夫婦を木に張り付け、桟橋の上で焼き殺してしまった。
 

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