内容はとても有意義で、括目させられる識見が満載であった。
ここで、「神の国アメリカ」という概念が非常に重要なのだが、この本でも紹介されている和辻哲郎の本が市販本になく、わずかに国会図書館でデジタル化されていたので、自分なりに現代の仮名遣いに直してみた。戦時中の国民文庫なので、そのつもりで読む必要はあります。
以下、10数回になると思うが、紹介したい。
段落も同じにしたので読みにくいとは思いますが、堪忍してください。
和辻哲郎著
筑摩書房 昭和19年刊 戦時国民文庫所蔵
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー より(以下直訳です)
目次
日本の臣道
アメリカの国民性
1.
アメリカ国民性としてのアングロ・サクソン的性格
2.
アメリカへの移住
3.
アメリカにおけるホッブス的性格の展開
4.
アメリカにおけるベーコン的性格の展開
5.
開拓者的性格
[日本の臣道]
臣道について我々の祖先がどういうことを考えどういうことを申していたかを省みまして、それを簡単に述べてみたいと思います。
話の緒と致しまして、近頃軍人精神につき海軍の方が説明されました言葉をここに拝借したいと思います。それは昨年の1月8日の平出大佐の放送演説の中にある言葉であります。『大君の御為には喜んで死のう』というのは軍人精神を体得する初歩の段階である。やがてその体得が深まってくると、『敵を倒すまでは決して死んではならぬ』という烈々たる戦闘意識を信念的にもつようになる。これが海軍の伝統的精神である。というのであります。この言葉は非常に重要な意義を含んでいる、と私は考えます。大君の御為に身命を捧げるという覚悟は、それだけでも立派なものでありますが、しかしまだ自分の身命にこだわっている。自分の身命を捨てるということをさも大事件のように考えている趣がある。それではまだ十分でないのであります。自分が生きるか死ぬかということは、そんな大事件ではない。自分の担っている任務のほうが自分の命などよりは比べものにならぬほど重い。その思い任務の達成を中心にして考えると、自分の死ぬことなどにこだわるのはまだ『私』を残した立場である。そういう『私』をも滅し去って、ただ任務だけになりきらなくてはならない。これが恐らくあの言葉の意義でありましょう。そう致しますると、これは、古来『死生を超えた立場』と言い慣わしているあの境地なのであります。
このように「死の覚悟」と『死生を超えた立場』とを区別して考えますと、我国中世以来の武士の考え方について理解しやすい点が出てまいると思います。中世以来の武士の習いは主君のために身命を惜しまないという言葉で言い表されました。戦記物などに繰り返して描かれておりまするように、坂東武者は実に潔く命を捨てました。これは確かに讃嘆すべき美風であります。しかしこの際『主君』と言われておりますのは、自分の直接の主人でありまして、高くとも征夷将軍、低い場合は将軍の家臣あるいは家臣の家臣であります。武士たちはこのような主従関係の内部で身命を捨てたのであります。従って敵をやっつけると申しましても、その戦は内乱にすぎませんでした。かかる場合、主人に対する恩愛の情が非常に強烈でありますれば、何のために命を捨てるかという反省は起こりませぬが、一度自分の担っている任務の意義が反省され始めますと、武士たちはその解決に困ったのであります。そこで一方には主従の道を放擲して主人を乗り越えようとする下剋上の傾向が現れてまいりますとともに、他方では身命を捨てることの意義を主従の道よりも深いところに求める傾向が生じました。この後者の傾向からして、あるいは国初以来の尊王の道に目覚め、あるいは仏教の深い理解に到達し、あるいはまた儒教をわが物とするに至ったのであります。これらはいずれも武士たちに死生を超えた立場を自覚せしめたのでありますが、しかしその意味するところは少しずつ異なっております。
話の便宜上まず仏教と結びついた場合を取上げますが、いわゆる鎌倉仏教を作り出した根本の力は武士の不惜身命の立場であります。鎌倉仏教は仏教の日本化に相違ありませんが、しかし日本人はこの時仏教の地盤から世界宗教の代表的な類型を悉く刻み出したのであります。念仏宗に於いてキリスト教的類型を、禅宗に於いて仏教的類型を、法華宗に於いて回教的類型を。これは日本の文化史上相当重大な仕事であります。ところでこの大事業を成し遂げた不惜身命の立場はこの仕事を媒介として死生を超える立場に成熟いたしました。武士たちは自分の身命などと比べものにならない絶対の境地に導き入れられたのであります。特に武士の生活と深く結びついたのは禅宗でありました。それは武士の生活の隅々にまでも浸み込みました。一例を挙げますと、剣の技術であります。剣術は敵を斬伏せる技術でありますから宗教とまるで領分が違うと西洋人なら考えるところでありますが、日本の武士たちは剣の技術の極致を禅宗に於いて体得したのであります。剣禅一致と云われるのがそれであります。自分の命がどうの、敵の命がどうのというような小さい問題ではなく、絶対の境地に突き入ってしまうのであります。勿論これは剣の達人のことであって、誰でもがそのような妙境に達し得たのではないかも知れません。しかし戦国時代の日本の武士の剣術が全体として非常に高い程度に達していたということは認めなくてはならないと思います。
少し枝道に入りますが、この点について一つのエピソードを申し上げましょう。日本人自身は国内だけを見て記録しておりますから、名人を語るときは多数の凡手のあることを前提としておりますが、その凡手といえども、他国人に比すれば段違いに優れていたことを示す事実があるのであります。英国のジョン・デヴィス航海記(Voyages and Works of John Davis)によりますと、1605年の暮にこの有名な航海家をビンタン島付近で殺したのは日本の武士であります。デヴィスはバタニへ行くつもりで風待ちをしていたのでありますが、同様に逆風で帰国できないでいる日本人の船に出逢ったのであります。この船は70㌧位のジャンクで、中に90人の日本武士が乗っていた。その大多数は船乗りとしてはあまりにも立派な堂々とした身なりで、また皆が同輩であるかのように互いの間の行儀作法がいかにも平等であった。話し合ってみるとこれはしな支那やカンボジャの沿岸を荒らす武士たちで、自分たちの船をボルネオの海岸で痛めたために、バタニ人の乗っていた今のジャンクを乗っ取ったとのことであった、などと記されております。デヴィスの船タイガーは240㌧で6吋半の大砲を備えておりますから、見かけた船はすべて捕えて積み荷を調べ、欲しい貨物があれば取上げるのであります。日本人の船もその臨検に逢ったのでありますが、積荷は米ばかりで、しかも湿っている。でデヴィスは支那への航路について知識を得たいとの考えから、貨物は何も取上げずに、鄭重に日本人をかんたい款待した。『しかるにこの悪漢どもは、風向きや運の向きに絶望して即ちこのぼろ船で本国に帰る望みがないので、我船を取るかあるいは死ぬかだと決意した。』これは航海記の記者の解釈であります。貨物も取上げず鄭重にもてなしてやった。即ち何の害も加えなかったのに、刃向って来るとは怪しからん。責任は日本人の側にある。というのでありますが、捕えて臨検した彼らの態度がいかに人を憤慨させたかは反省しないのであります。のみならず款待と称して25-6人の日本人を英船へ呼んだ代わりに、25-6人の英人をジャンクに派して
一日中米の中を捜索させております。米の中に貴重な荷物が隠されていはしないかと疑ったのであります。この際航海記の記者は、デヴィスの失敗として日本人の武器を取上げなかったことを力説しております。英船へ呼んだ方は6人以上に武器を持つことを許さなかった。日本船の方でも、武器を取上げて皆をマストの前に集め、取上げた武器には張り番をつけて米の捜索を始むべきであった。そのことは繰返しデヴィスに注意したのであったが、デヴィスは日本人の謙遜な態度に欺かれてついに武器を取上げなかった。『かくして一日中英人は米の中を探し、日本人はそれを眺めていた。』この油断の間に日本人はすっかり手筈を整えたというのであります。こういう英人の心構えが日本人を真に鄭重に取扱ったものでなかったことは言うまでもありません。一日中米の中を探した英人たちが何物をも見つけ出しえないで日が暮れかかったとき、突如日本人たちが英人を攻撃し始めたのは、如何にも当然であります。さてここで申し上げたいと思うのは、この時の闘争であります。『合図と共に突如日本人はその船にいた英人たちを悉く殺し、また追い払った。』これが日本船上の闘争で、一瞬間に片付きました。しかるに英船上にいた同数の日本人は、それから4時間半戦っております。合図と共に彼らはケビンから打って出ました。ちょうどそこへデヴィスがガンルームから出てきたので、ケビンへ引っ張り込んで簡単に片づけ、放り出しました。そうして中甲板へ出ようとしましたが、上から船員たちが槍で防いで上がらせまいとします。それを手繰り寄せて剣で切ろうと猛烈に追って行きます。かくして半時間近く戦いましたが、日本人は3-4人やられてあと22人はケビンへ退きました。剣を持っていたのは5-6人で、あとは手当たり次第のものを武器としているのです。ケビンでは4時間以上粘り、しばしば夜具その他に火をつけて船を焚こうとしましたので、英人は遂に6吋半の大砲2門に小銃弾、霰弾、クロッスパーなどを込めてケビンに打ち込みました。それで隔壁を打ち砕いて消防を可能にするとともに、21人の日本人を文字通り打ち砕いたのであります。以上二つの船の上の闘争が武道の優劣についてよき比較を与えると思います。双方とも数は25-6人であります。それに対する味方の人数は英人の方がずっと多いのであります。しかも日本船の上では一瞬間に片付き、英船の上では船の危機が起こりそうになりました。事実この事件のために間もなくタイガーは本国へ引き返すことになったのであります。全くの段違いと思われるのであります。名もなき日本武士といえども、他国人に比較した場合にはこれほど程度が違っていたのであります。
なおデヴィス航海記の記者は右の記事の後に、『この闘争の間、彼らは逃れる望み無きに拘らず決して助かろうとはしなかった。この日本人たちのdesperatenessはそんな風であった。』と言っております。この時一人だけは海へ飛び込んだのでありますが、泳ぎ帰って救い上げられ、我々は英船を乗っ取るつもりであったと白状しました。しかしそれ以外には何も言わず、早く殺せという態度をとりました。この日本人の態度、全然命を惜しがらぬ態度を、英人はdesperateと呼ぶのですが、ここにこそ姿勢を超えた立場があるのであります。名もなき日本の武士たちすらも、右のごとくこの立場を我が物としていたのであります。
しかしこの立場におきましては、武士たちは具体的な任務を自覚することはできませんでした。絶対の境地なるものは、具体的な特殊な任務の実現として己を現してくるのでなければ、単に抽象的に過ぎません。その結果、無数の優れた武士たちが国内で互いに殺し合い、国外では無駄死に致しました。そうしてヨーロッパ人よりも2-300年も立遅れることになったのであります。
(つづく)
(つづく)
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