2013年2月25日月曜日

津和野から萩へ

津和野の古い町並みが綺麗だった。
ここには5軒ほどの醸造元がある。


僕は古橋酒造に入り、初陣しぼりたてを買い求め、古都をあとにした。



次なる訪問地は萩市。
島根県から山口県に移動である。
津和野から県道で萩に入ると松蔭神社の前に出る。

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我々福島県人にとっては、様々な感情の交わるのが山口県、長州である。

なぜか。

福島県と山口県の悲しい歴史は2月5日に少しだけ書いたのでここでは省くが、
萩は、そのような明治維新を思い出させる街なのだ。
写真のの石碑「明治維新胎動の地」の石碑は、松蔭神社・・・すなわち松下村塾の跡地にある。


神社境内には「春」の訪れを感じさせる花花が咲きだしたようである。


僕たちは次なる訪問地、木戸孝允の旧宅や高杉晋作の誕生地などのある一角に向かった。
旧藩校萩藩明倫館の東にある中央公園に車を置いて、萩城城下町エリアに向かった。

とりあえず、萩の里「キモノスタイルカフェ」にて萩焼と美味しいコーヒーをいただくことにした。
実際、ここのオリジナルブレンドコーヒーは美味しかったので、萩珈琲1パックをまずゲット。
もちろん萩焼も。


ここ萩城城下町の一角は高杉晋作の生家や木戸孝允の屋敷などが並ぶが、屋敷内にみかんの気が多く植えられているのが人目を引く。まるでみかん畑の中の農家のようである。
みかんだけは好きなだけ食えるようになっている。


近くには入口に戦前の首相田中義一の像を置いた萩博物館があるが、どうせ気分を害するばかりだから、また、そんなに暇なわけでもないし、昼飯にしよう。

ここまで来たら、てっちりか、ふぐ雑炊か、ふぐ釜飯だろう。
僕たちは、昼飯としててっちりを食べるわけにいかないので、後2者をそれぞれ食べることにした。
萩江戸屋の飯である。各1500円なり。雑炊と釜飯の違いは水加減だけのようである。


ふと見ると近くに喫茶店があって、その屋根に鷹らしきものがいたので被写体になってもらった。


萩を出て、僕たちは次なる宿泊地を下関に決めた。いよいよふぐの本場で、ふぐ刺しを食おうということなのだが・・・・ 

そして、関門トンネルで九州へ・・・・・



2013年2月24日日曜日

突然ですが津和野にに行ってきました

2月15日から22日まで、ドウセ暇だから・・・・・ということで古い友人とあてのない旅行をしてきました。
これから何開花に分けて、その旅行と感動を書き残したい、できれば伝えたいと思います。

下の写真は、一緒に旅行した菅野英夫さん(中央の青半袖シャツの男性です。写真は花職人.Aizuさんのブログより借用しました。)


菅野さんは2011.3.11の福島原発事故の影響で、それまで川俣町山木屋でトルコキキョウの生産農家(有限会社夢農園)で、業界では全国に名の通った人です。
住居も含めた生産拠点は放射能のため計画的避難区域に指定され、ご家族はご両親が福島市、奥様とお子様は京都府、本人は福島市に残って復興・除染関連の小ビジネスを始めました。

僕は、川俣町の避難区域ではなかったのですが、いろいろあって現在は新潟県十日町市に「自主避難」しているところです。
たまたま12月から仕事が切れて暇を持て余していたのですが、英夫さんの誘いがあって、旅行に一緒に出かけることになったのです。

彼とは30年来の付き合いで、たまにこの様な気まま旅行をしていた仲です。

 折しもこの季節は我が新潟はもとより豪雪の真っ只中。
僕が福島に出て行って、マイカーをデポし、そこから一気に南下しようということになりました。
ちょうどその日の新潟は好天に恵まれていたので、一気に富山経由で行けるところまで行こうということになりました。

14時福島出発です。
ここから1週間で5000キロを走る旅が始まりました。

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菅野さんは花卉栽培農園と薪工場を経営し、とても活動的なので、日本全国にお友達というか仕事仲間がいます。そういうところに活発に出かけるので、年間10万キロは走っているそうです。
お土産をたくさん仕入れたいので(菅野さん)走行30万キロのワンボックスバンが相棒です。

初日は、とにかく行けるところまで行こうという相談で、渋滞の京都大阪を回避し、うまく休憩を取りながらという作戦です。

結局、琵琶湖東岸の多賀で2時間ほどの仮眠をとって夜明け前に兵庫県に入りました。
既に1000km走ってました。

そろそろ今夜の目的地を決めなくてはいけません。
なんとなく
「山陰の小京都」津和野に行かない?
となり、中国道六日市で高速を降りました。

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途中の昼食はこのあともそうですが、大抵はパーキングや道の駅のおそば、うどん、ラーメンのたぐいで、とにかくスピードを重視しました。

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津和野街道では、美しい清流の他に道端に出されている白菜が極端に高値なのが目につきました。
よく見ると畑が非常に少ない!
かそのために担い手がいないせいかな? とも思いましたが、やがて、
イノシシのせいだ!!!
ということがわかりました。
これから訪れることになる中国九州地方は、気候温暖であり、イノシシをはじめシカやその他の「害獣」が非常に多いそうです。

僕たちは、近くの道の駅で「イノシシカレー」と「大馬鹿ヤローカレー」(ただし「鹿肉」は北海道のエゾシカ)をお土産に求めました。




津和野は、駅前の観光案内でビジネスホテルつわのを教えてもらって泊まりました。
すぐ近くに安野光雅美術館があったので見学してきました。http://www.town.tsuwano.lg.jp/anbi/tenzi.html

夜は近くの居酒屋を教えてもらって飲みに出かけました。
2月という季節もありますが、どんどん寂れていく町並みの印象でした。


2013年2月11日月曜日

雪国にて(近況報告)

最近、訪問者の方から「どうしてますか?」との問いかけらしきものがあったので、近況報告します。

十日町市に移って1年になります。
ただ、昨年11月までは「週末住民」でした。
12月からは本格「定住」に入りました。

12月中旬に早めの大雪があったのですが、その後は降雪も少なく過ごしやすい日々が続いていました。
それが、今朝からひっきり無しに雪が降って、今日の分だけで50センチ以上は積もったと思います。まだ降ってますし。
ただ、この町は風吹くことがほとんどないのが救いです。
佐渡とか沿岸部は猛吹雪もあるらしいですが、今のところ吹雪はないです。

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12月から「プチ失業」状態なので、時間だけはたんまりあるのですが、散歩やドライブ、サイクリングなどができずに、ひたすらぜい肉ばかり溜め込んでいます。
従って、旅行、登山などがないので以前によく書いていたような写真日記も書けない状態です。

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なんだかどんよりした雰囲気の文章になっていますので、すこし前向きな記事もひとつ。

来週あたりかな?
せっかくの休日を利用して、友人と山口県に行ってこようというお話があります。
廃業したゴルフ場跡地でシイタケ栽培しているという方がいらっしゃるとかで、
どうせ暇だろうから一緒に行かないかと誘われました。
日程は未定なので、結果はあとでの報告になると思います。

それと、普段の生活が「奥山」のさらに雪深い場所にもう一箇所の仮寓があるので、平日はそこから十日町市街地の僕のアパートに「通勤」し、休日はアパート住まいというパターンで、「食」の心配もないから、割合気楽なものです。ちなみにその奥山の住居では本日の降雪が1mに達したそうです。さっき、その連絡が入りました。普段ならこれから「奥山」まで出かけるのですが、今夜は諦めです。70日ぶりに「孤食」を楽しむことになりそうです。

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こちらに来て・・・というか、近くにはスキー場もたくさんあるし、食指は動くのですがまだ1度も滑っていません。そのうち、12年ぶりにやってみようかとも思うのですが、いつになることやら。

一昨日、苗場スキー場を見に行きました。ここから50キロもあって「遠い」のですが、35年前に来たとき一日で70本以上リフトに乗って楽しんだことを思い出しました。体力、気力の衰えがなければ、まだまだ滑れるぞと思いました。夜行バスで来て、プリンスホテルでコーヒーを飲んだのが昨日のことのように蘇りました。

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一昨日、21度の日本酒を4合一人で飲んでたら、途中から記憶を失ってしまいました。
あとで訪ねてきた連れ合いに聞いたら、玄関の呼び鈴にパンツ一丁で出てきたそうです。

でも、今夜は誰はばかることなく、オールドパー1本くらいはやっつけられそうです。
既にストレートで1合くらいは済ましたしね。







2012年12月28日金曜日

レ・ミゼラブルを見てきました。


 10代の頃から愛読していました。当時は文庫版でも10巻以上あったのではないかと思います。
2年近く前から、年甲斐もなく映画やコンサートなどのDVD,CDを買い集め、密かに楽しんでいた。

実は、このブログを始めた頃、偶然織田裕二の映画「アマルフィ」を見て、南イタリアの美しい風景とサラ・ブライトマンの澄んだ歌声に感動したのがスタートでした。

サラ・ブライトマンにはまり、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルにはまり、プロジューサーのキャメロン・マッキントッシュに溺れる中でたどり着いたのがレ・ミゼラブルというわけです。

たまたま1年前にミュージカル公園25周年記念のコンサートDVDが発売になったので、何度も見ては感動していました。できれば舞台を全曲通して見たいものだと思いました。

そんなところに、2010年ロンドンキャストでの全曲CDが発売になったのですぐに求めたほどです。

映画は古くはジャン・ギャバン主演とか色々あるようなのですが、リーアム・ニーソンの1本だけ買いました。

そして、今月とうとうミュージカル版が映画化、上映されたのです・


この物語には多くの主人公がいるのですが、ジャンバルジャンやテナルデぃエ夫妻はとりあえず割愛です。
ラッセル・クロウが「悪役」刑事ジャベールです。すごく懐かしいです。
写真は映画「ロビンフッド」のモノなので小さくしてあります。

「マンマ・ミーア!」でソフィ役を演じたアマンダ・セイフライドが、少女コゼットです。


アン・ハサウェイ扮するところのファンティーヌ。子供のために、髪を売り、歯を売り、体も売ってボロボロになっていく女性の役です。
(わずか200年前の時代ですが、世界中でこのような庶民の悲しい歴史が繰り返されていたのでしょうね。)


レ・ミゼラブル出演前は髪が長くかったのですが、 舞台ではなく映画であるということで、あえて劇中でカットしたらしいです。 アン・ハサウェイ恐るべしです。

映画は2時間半以上あり、特に前半は見ているだけでミゼラブルな気持ちになります。
名場面はたくさんありますが、それはご自分でご覧になられるのが良いと思います。
また、この物語は特にフランスではよく知られたもので、ストーリーの展開が理屈抜きなので、予備知識なしにうっかり見に行くと大変かも。

やがてDVDが出るでしょうが、是非コレクションしたいものです。





2012年10月12日金曜日

僕もかつては不登校生だった

別にいじめられたわけでもないし、勉強が苦手だったわけでもなし、現代社会で言われるような不登校の理由は全くなく、僕は結構不登校生だった。

小学校低学年児、勉強は楽しかった。掛算九九なども必死になって覚えようとしていたし、鶴亀算などに悩まされもした。しかし、勉強は好きだったし、教室でも友達がたくさんいて、学校嫌いになる要因は何もなかった。だけど、学校の隣に裏山があって、その山が大好きだった。仲間も他にいた。で、学校より山が好きになって、低学年の頃はよく山学校をしたものである。授業中にこそこそ教室を抜け出そうとして先生につかまったこともある。
僕は学校が大好きだった。
こんなことでも、今の社会では「不登校」というのだろうなぁ。
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高校生の時、2学年の2学期から卒業まで不登校で過ごした。なぜか卒業は普通にできた。
この時も、学校に不満があったわけでなく、友人たちに恵まれなかったわけでもない。
この時は、連続購読を始めた文芸全集(新潮社世界文学全集毎月刊、中央公論社世界の思想全集毎月刊)の購読をはじめたら学校に行く時間が無くなったからそうなったまでのことであった。
一日24時365日間読書三昧の日々。
高校のほうでも何を見ていてくれたのか、出席しなくても点数を呉れて卒業させてくれたのは、後で考えると感謝感激であった。
もっとも、東北大学に進学した時には高校の先生もあきれ顔で相手にしてもらえなかった。落ちこぼれ高校だったからかどうかは知らない。合格を喜んでもらえるかと思って母校を訪ねたのだが、合格を祝ってくれる「恩師」の居ない高校。。。寂しく学校を背にした記憶がある。
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はっきり言って、僕は「不登校生」だった。
小中学校で、可愛い女の子や貢物を呉れる家庭の子等を大切にする嫌な先生たちを見てきたせいか、教職は嫌いだった。
だからと言って、全部が全部ではなく、立派な先生、愛すべき立派な先生方もたくさんいた。
でも、僕は不登校をした。
他にしたいことがたくさんあったからだと思う。
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現代の教職の皆さん、父兄の皆さん!
不登校を「悪」とか「弱者」とか決めつけないほうがいいと思いますよ!!
それよりも、学校をもっと楽しく、学び甲斐のあるものに変えていってくださいね。


2012年9月30日日曜日

わが小手子のために

日本書紀に、「或本」に曰く。とある部分について。

(引用開始)
http://inoues.net/tenno/sushun_tenno.html


泊瀬部皇子は、馬子が穴穂部皇子と守屋を討った直後、即位して崇峻天皇となる。母は蘇我馬子の妹小姉君だった。しかし蘇我勢力に
  支援されて天皇になったわりには、蘇我馬子との関係は悪化していったようである。帝は蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠
  手の娘「小手子」を妃として、間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女をもうけるが、蘇我馬子の娘河上娘を正妃として迎え
  たという説もあり、崇峻天皇の寵愛を受けるようになったのは誰かという事を巡って、これに対する妃大伴小手子の嫉妬が、崇峻天皇
  暗殺を招いたとの説も根強い。日本書紀は「或本」に曰く、これは天皇の寵が衰えたことを怨んだ小手子が馬子のもとに遣った密告に
  端を発するという。

(引用終わり)
日本書紀は蘇我氏の滅亡に対し積極的な意見を述べる箇所が多いが、崇峻天皇の暗殺についてはすこし変わっている。

上記のように讒言をしたのはわが「小手子」かもしれないと載せている。

しかし、これは変だ。
大友糠手の娘である小手子が、どうして敵対する蘇我氏に讒言する必要があるのか。むしろ繰り言を言わねばならないのは河上郎女だろう。

河上郎女はもともと蘇我氏の娘だし、この娘と姦通した駒が処分されたのも、讒言主の正体を知っていたからだろう。

そして、その「讒言」を受けて天皇暗殺に走った馬子の行動がさも当然のように記述されているのも納得がいかない。

この辺には、「天皇家の素性」を示す何事かがあったのだろうと思われます。

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この時代の日本上流階級の婚姻は「妻問婚」である。
天皇家の血統云々と言うけれど、「女」が許せば誰とでも交わることができた時代である。
(この点でも、古代社会には男系の万世一系など有り得ないと言える)

ちょっと前の欧州上流社会と同じだ。高貴の女性にとって「結婚は浮気の免罪符」なのだ。
女にとっては「処女性」のみが問題であったと言うべきか。

河上の郎女は、せっかく崇峻天皇の妃に入ったのに天皇本人が心を開いてくれない。自らの第二の青春を求めて父親に告げ口をしたのに違いないと思う。小手子が蘇我の親方に告げ口をする理由はない。

「日本書紀」は著者の正当性を証明するために嘘で固めた書物であるが、すこしは良心の呵責もあるらしい。何かのヒントを残していてくれているようだ。

2012年9月9日日曜日

赤穂に来ました


まずはなんといっても、塩サイダー。
祥吉のプレゼントでもらっちゃった。
帰ってからウィスキーの炭酸割に使ったら、是がまことに美味!!!
因みに、340ml3本で510円とか。(通販情報)


駅のそばの蕎麦屋さん。さすがに赤穂は時代がかっています。
だけど、機械仕掛け人形の悲しさよ。 椀のお蕎麦は口元までは運ばれるのですが、けっして喉を通ることはありませんでした。(涙)

大石内蔵助と赤穂四十七士の合言葉は、なんといっても大願成就。
武士の本願は「死ぬことと見つけたり」
現代人にはこんな『大願』などいらないでしょうね。

封建時代の当時は、進んでも地獄引いても地獄、動かなければ不動の地獄だったのですからね。
男も女もつらい時代でした。
命がけで果たしたのは「名誉回復」のみ。人生辛すぎでした。

赤穂城跡にある大石神社の参道には四十七士の像が立ち並んでいます。
東京オリンピックのころだったっけ? 大河ドラマで放送されたのは。
あの頃の僕はまだ中学生位だったけど、全員の名前と役割を覚えたものです。
今になると役者さんの名前すら思い出せませんでした。

赤穂温泉のすぐ近くには、海に向かって伊和都比売(いわつひめ)神社があります。
播磨の国一宮の伊和神社の比売神(ひめかみ)とも言われていますが、航海安全の神様でもあります。
浅野家の初代が建立されたそうです。

鳥居の額銘は、日露戦争の英雄、東郷平八郎の筆によるものです。
東郷平八郎は薩摩藩士でしたが、「天気晴朗なれども波高し」の「トーゴーターン」戦術で世界一のバルチック艦隊を全滅させ、日本軍を勝利に導きました。
この功でのちに元帥伯爵に列せられ、東京や九州には「東郷神社」まで建てられたようです。
もともと神社と言う所は戦争や軍人と深い関係がありますからね。

最後に。
「ひめ」とはかなしいもの。

ここに祀られている「姫」も夫君は少し離れたところに祀られている。

我が「小手子」に至っては、夫は奈良県、「小手子姫」は福島県に祀られている。何の運命のいたずらであろうか。大阪の堀越神社に家族そろって祀られているとはいうものの、本人たちは生涯再びの逢瀬はなかった。

ここの姫も、海に向かってただひたすら建っている。帰らぬ夫をただただ待つ妻のように。
彼女にとっては見える船すべてが夫の乗る船にみえるのであろうか。
航行するすべての船を守ってくれているのである。

鳥居の前の参道は海に向かって階段で続いているが、「危険 立ち入り禁止」。