(引用開始)
http://inoues.net/tenno/sushun_tenno.html
泊瀬部皇子は、馬子が穴穂部皇子と守屋を討った直後、即位して崇峻天皇となる。母は蘇我馬子の妹小姉君だった。しかし蘇我勢力に
支援されて天皇になったわりには、蘇我馬子との関係は悪化していったようである。帝は蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠
手の娘「小手子」を妃として、間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女をもうけるが、蘇我馬子の娘河上娘を正妃として迎え
たという説もあり、崇峻天皇の寵愛を受けるようになったのは誰かという事を巡って、これに対する妃大伴小手子の嫉妬が、崇峻天皇
暗殺を招いたとの説も根強い。日本書紀は「或本」に曰く、これは天皇の寵が衰えたことを怨んだ小手子が馬子のもとに遣った密告に
端を発するという。
(引用終わり)
日本書紀は蘇我氏の滅亡に対し積極的な意見を述べる箇所が多いが、崇峻天皇の暗殺についてはすこし変わっている。
上記のように讒言をしたのはわが「小手子」かもしれないと載せている。
しかし、これは変だ。
大友糠手の娘である小手子が、どうして敵対する蘇我氏に讒言する必要があるのか。むしろ繰り言を言わねばならないのは河上郎女だろう。
河上郎女はもともと蘇我氏の娘だし、この娘と姦通した駒が処分されたのも、讒言主の正体を知っていたからだろう。
そして、その「讒言」を受けて天皇暗殺に走った馬子の行動がさも当然のように記述されているのも納得がいかない。
この辺には、「天皇家の素性」を示す何事かがあったのだろうと思われます。
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この時代の日本上流階級の婚姻は「妻問婚」である。
天皇家の血統云々と言うけれど、「女」が許せば誰とでも交わることができた時代である。
(この点でも、古代社会には男系の万世一系など有り得ないと言える)
ちょっと前の欧州上流社会と同じだ。高貴の女性にとって「結婚は浮気の免罪符」なのだ。
女にとっては「処女性」のみが問題であったと言うべきか。
河上の郎女は、せっかく崇峻天皇の妃に入ったのに天皇本人が心を開いてくれない。自らの第二の青春を求めて父親に告げ口をしたのに違いないと思う。小手子が蘇我の親方に告げ口をする理由はない。
「日本書紀」は著者の正当性を証明するために嘘で固めた書物であるが、すこしは良心の呵責もあるらしい。何かのヒントを残していてくれているようだ。
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