2012年2月21日火曜日

1500年前のノスタルジア

去年8月の本欄で奈良旅行のことを書きました。
奈良県明日香村、橿原市は一人がってな思い込みからすると、わが今井家のルーツがあるらしい場所です。
---------------------------------------------------------
福島県川俣町は、その昔殺された崇峻天皇の妃であった小手子姫が落ち延びて開いた町。養蚕技術、絹織物技術を伝えられた町です。

小手子姫の実家は大伴の糠手。この一族は川俣町北方に健在です。
私の家の出所は、川俣町南方の地形的要害にあたる場所に住みついております。
----------------------------------------------------------
崇峻天皇暗殺事件については、日本書紀にも詳しく述べられておりますが、大筋はともかく、相当の脚色が込められていることは想像に難くありません。
大伴の娘であった小手子姫がいくら天皇の寵愛が衰えたからと言って,実家の政敵である蘇我家にひそかな情報を教えるなどということはあり得ません。日本書記はこのあたりいかさまを書いています。
崇峻天皇暗殺事件は、僕は、当時の尊皇派と攘夷派の戦いだったとみています。
尊皇派とは、崇峻天皇を持ち上げる一派ではなく蘇我馬子の一族だったと思います。崇峻天皇は攘夷派でした。
この謀略戦で崇峻天皇は破れました。その墓が現在の桜井市にあるという天皇家の説がありますが、実のところは不明というしかありません。
大阪には、唯一崇峻天皇を祀ったという堀越神社があります。かなり変わった神社です。
-----------------------------------------------------------
あっという間に妃の座から追われた小手子姫は、聖徳太子の一派に追われてか、助けられてか、東北の地川俣に落ち延びました。
付き従うは、大伴家や今井家などの、大伴家または崇峻天皇ゆかりの今井家などかなりの人々であったと想像されます。
ある者は大友家あるいは今井家を守り、ある者は蘇我家の立場から小手子姫とその一党を閉じ込める役に回ったものと思われます。
その事をにおわせる家名や地名がいくつか残されているような気がします。
------------------------------------------------------------
去年の夏、兄とともに明日香村を訪れた私は、その不思議な因縁をいくつか体験させられました。
小手子姫と私たちについては、また改めて続きを書きたいと思います。


2012年1月20日金曜日

健在どころか・・・


ひょっとしたら、生まれ変わってしまったのかもしれない…

福島の放射能のせいかも。

ありのままの自分を愛せるし、いつもニコニコでいられる。
貧乏も孤独も感じなくなった。

話す友達すらいなかったのに、クリスマスの日の一人の天使に出会った。
その天使に心を占領された。

何百キロも離れた雪国だけど、僕はその天使の近くに引っ越すことにしたよ。
考えられなーい!!
脳まで汚染されてしまったのかもね。

2011年12月29日木曜日

変調? I love You

クリスマスの日以来僕はおかしい。

特に昨夜はそうだ。
本年納会のお神酒を会社からいただき、ひとりで飲み過ぎたせいもあるが、大事な人と電話をしながら今日になってみたらその内容が思い出せない・・・・・・・!!!。

僕にとってものすごく大事なことなのだ。

昨日呑み出したのは午後3時ごろ。夕方にはすでに5合ほど飲んで出来上がっていたかも。
情けない。
情けなくて、これからはその大事な人と一緒の時以外は禁酒にしようか・・・などと考えたりする始末だ。

粘土オヤジ
クレイジーだ
---------------------------------------------
今の自分は相当変だ。
60余年の人生の中でもこんなことは滅多にあるものではない。
大の大人が--------と、あきれてしまう。

クリスマスの恋風邪で熱がとまらない!!!!!!!!!------------
俺はほんとに狂ってしまったらしい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

I love You.




2011年12月27日火曜日

雪の十日町

クリスマスの雪は、豪雪地帯の十日町ではすでに2メートルくらい積もったといいます。

僕は、10月に柏崎にいたころ十日町経由で津南町の秋山郷にぶらっと行ったときにとおりました。
その時の僕には、有名なヘギソバをどこかで食べようとしか考えが及びませんでした。


次の写真は笹山の火焔土器ですが、縄文の古い立派な歴史もあるんですね。
津南町なら、NHKの「天地人」の直江兼続の生まれたところといいますよね。
「愛」の兜飾りが有名になりました。
調べるとこのドラマのオープニングに、この付近のナントカ峠の映像が使われているということなので、、NHKオンデマンドで「天地人」のオープニングを見ましたが、デフォルメが強くてあまりはっきりは分かりませんでした。


これからこの町はもっともっと雪が降り積もるのでしょうか。
雪はすべてのものを真っ白に覆い尽くす魔法のベール。
ある意味「魔性」の雪の一側面でもあります。



これからの季節、こんな除雪作業が毎日の生活の中に織り込まれるのでしょう!!
すごいです。


ところで、昔の十日町小唄から・・・

一)越後名物 かずかずあれど
  明石ちぢみに 雪の肌
  着たら放せぬ味のよさ
    ※テモサッテモ ソジャナイカ
      テモ ソジャナイカ

(二)娘ざかりを なじょして暮らす
   雪に埋れて 機仕事
   花の咲く間じゃ 小半年 ※

(四)人が見たらば 横丁へよけて
   雪のトンネル 隠れ場所
   恋の抜け道 まわり道 ※

(九)汽車を止めるよな 吹雪の中も
   止めて止まらぬ 恋の道
   思いつめれば 一筋に ※


2011年12月24日土曜日

ルータン ボイジャー

昨日の天皇誕生日は、世界で初めて無着陸・無給油で世界一周飛行をしたルータンボイジャーの偉業達成日です。

ここで、その業績をたたえ、ウィキペディアの記事を再録します。
映画が作れそうですよね。
それにしても、記事にもあるように食事と排泄はどうしてたのでしょうか??

(以下全文引用です)



ルータン ボイジャー (Rutan Voyager) は1986年に初めて無着陸・無給油での世界一周飛行を成し遂げたアメリカ固定翼機である。操縦はディック・ルータン (en:Dick Rutan) とジーナ・イェーガー (en:Jeana Yeager) によってなされ、機体の設計・製作はディックの弟で著名な航空技術者であるバート
・ルータン
を中心として行われた。エンテ型飛行機垂直尾翼のついた双ブームを持ち、2つのプロペラエンジンを主胴体の前後に配置した特徴的な外見を持つ機体であった。

世界一周計画発案までの経緯 [編集]

ディック・ルータンは元アメリカ空軍の士官であり、ベトナム戦争にも参加して数々の勲章を授与されたベテランパイロットであった。一方、その弟のバート・ルータンは1970年代当時バリ・イージークイッキー(en:Rutan Quickie)といった特徴的なホームビルト機 (en:homebuilt aircraft) を製作していた新進気鋭の航空技術者であった。二人は共同で航空機製造会社(スケールド・コンポジッツの前身)を営み、ディックはバートの製作した航空機のテストパイロットを務めていた。

1980年、カリフォルニア州・チノ (Chino) の航空ショーに参加していたディックとバートはそこでジーナ・イェーガーに出会った。イェーガーは製図士として働く女性で航空機や実験機に興味を持っており、20代半ばにはヘリコプター免許を取得しているほどであった。その後イェーガーとディックは恋仲となり、イェーガーはディックの会社に誘われてテストパイロットとして働くこととなった。イェーガーはそこでロング・イージーの最高速度記録をマークしている。

1981年、無着陸・無給油での世界一周飛行をディックとイェーガーが発案し、それを達成可能な機体の設計依頼がバートに持ちかけられた。その当時、無給油での最長距離飛行記録はB-52によって1962年に成し遂げられた20,168 kmであり、またバートと共にクイッキーを製作した航空機製造会社 (en:Quickie Aircraft) が同時期に無着陸・無給油の世界一周飛行を計画していたものの実行されることはなかったため、このような挑戦は非常に野心的であった。バートは二人の提案に応じて機体を設計し、モデル76の型番を与えた。そしてイェーガーはその機体を"ボイジャー"(航海者の意)と名付けた。

機体の設計・開発 [編集]

ボイジャーはバートが初期に手がけたバリ・ビゲンやバリ・イージーと同じくエンテ型の翼配置を採用し、前翼(カナード翼)端から主翼中央部を通って機体後方に突き出した左右2本のブーム先端にそれぞれ1枚ずつの垂直尾翼を備えていた。翼のアスペクト比誘導抗力を減らすために大きく取られ、非常に細長いものとなった。なるべく機体を軽くし、かつ十分な強度を持たせるために構造材料としてはガラス繊維炭素繊維それにケブラーといった強化繊維と樹脂との複合材料である、繊維強化プラスチック (FRP) が多用された。エンジンの配置は牽引式プロペラ用と推進式プロペラ用を機体の前後にそれぞれ1基ずつ装備するという一見変わったものであった。エンジンとして当初はライカミング (en:Lycoming Engines) 製のO-235(空冷式、出力約110hp)を搭載していたが、後に牽引用としてコンチネンタル (en:Continental Motors) 製のO-240(空冷、130hp)、推進用として同じくコンチネンタルのIOL-200(液冷、110hp)に換装している。なお、牽引用と推進用を両方作動させるのは離陸上昇時だけで、飛行が安定したら後部の推進用エンジンのみで巡航する仕様となっていた。

機体の製作は主にバート、ディック、イェーガーの三人とボランティアの手によって進められ、計画に必要な資金の大部分も個人的な寄付に頼っていた。製作には約4年の時を費やし、1984年6月22日にようやく初飛行に成功した。その後1年半ほどかけて試験と改良を行い、1986年12月には計画を実行するための準備が整った。

計画の実行 [編集]

離陸時に破損した主翼端部

1986年12月14日午前8時1分(現地時刻)、ディックとイェーガーを乗せたボイジャーはカリフォルニア州エドワーズ空軍基地から記録飛行に出発した。機体には燃料(ガソリン)が満載されていたため、離昇までに約4.3kmも滑走することとなった(同基地は世界で最大規模の滑走路を持ち、その長さは約4.6kmであった)。この際、主翼内部の燃料の重みで主翼がたわんで地面と接触し、両翼端をそれぞれ30cm近くもぎ取られるというトラブルがあったが、特別支障がないと判断され、飛行はそのまま続行された。

飛行にはいくつかの困難がつきまとった。最も危険であったのはタイフーンのような悪天候であった。また天候の悪い地域を避けたり素早く通過するために余分な燃料が費やされ、さらにリビアでは領空の通過が許されなかったために大幅に迂回せざるを得ず、燃料残量は常に二人の懸案となった。ディックとイェーガーには未だかつてない長時間飛行に耐える精神力も求められた。二人は2-3時間ごとに操縦を交替していたが、コックピットは人2人がやっと入れるくらいの大きさしかなかったために疲労を十分に拭い去ることは難く、密閉空間での食事や排泄を含めた生活はストレスを与えるものだった。

カリフォルニア州に戻ってきた辺りで機体片側の燃料ポンプが故障するというトラブルがあったものの、12月23日午前8時6分、ボイジャーは世界一周を果たしてエドワーズ空軍基地に帰還した。この時点で燃料はほとんど残っておらず、無事に帰れたのは努力と幸運の結果であった。総航続時間9日3分44秒、国際航空連盟公認の航続距離40,212kmという大々的な記録を達成し、平均飛行速度は187km/hであった。この功績によりルータン兄弟とイェーガーは当時のレーガン大統領から表彰されている。

記録達成の後、ボイジャーは国立航空宇宙博物館に寄贈されて展示されている。なおボイジャーの打ち立てた無着陸・無給油での最速の世界一周時間記録と最長航続距離記録はそれぞれ2005年と2006年にジェット機バージン・アトランティック グローバルフライヤー (en:Virgin Atlantic GlobalFlyer) によって破られている。この機体の設計にもバート・ルータンが関わっており、製作はスケールド・コンポジッツが中心となって行われた。



2011年12月18日日曜日

岩手県大迫町で大償神楽を見た





今日はなぜか大迫町の早池峰神楽を見るハメになってしまいました。

休日だからといって、ホテルの部屋に閉じこもりきりというのも芸がないと思い、あてなくハンドルを握りました。

北に向かって走っているうちに、なんとなく早池峰山の登山口の旅籠集落を見たいと思い、ナビで調べたら山の博物館があるというのでそこをターゲットにして行きました。

岩手県に入るや周りは真っ白な雪景色に変わりました。さすがに千正夫が「北国」といっただけあります。ナビは花巻インターから大迫町に導いていきます。
博物館は丘の上にあって、途中の道路はわずかに圧雪状態でした。

じつは、この後も同様で、写真も約30枚ほどとってきたのですが、パソコンにアップしようとしているうちに、誤ってデータを消去してしまい、全滅です。
--------------------------------------------
しかたなく、記憶のあるうちに記録することにします。

一つ驚いたのは、学生時代の山岳部の先輩だと思いますが、百々幸雄さんが発掘したという弥生人の幼児の埋葬跡を発見したという展示物でした。医学者が人骨調査…? 新しい≪発見≫でした。
同時に、「オレはいったい何をやっているんだ・・・・・」との思いが頭をよぎりました。

気を取り直してその他を見ていたら、「植村直己と仲間たち」というパンフレットが目に入りました。彼が亡くなる半年前に、私は彼を福島県青少年会館に招待して講演をしていただき、夜は少しですがビールを飲み交わした思い出があります。彼の非常に謙虚な当時の姿が目によみがえりました。

さらに見ていたら、大迫町では神楽が国の重要無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産に登録されており、しかも今日が大償神楽の舞い納め日となっているではありませんか!!
開演時間など書いてありまませんでしたのでとにかく行ってみることにしました。

会場は神楽の館。見ると入口にいちばん近いところの駐車スペースが空いております。もちろん周りはうっすらと雪化粧の中です。北上山地でも大きな曲り屋の一つだった民家の母屋を移築して平成の「ふるさと創生資金」で建設した施設だそうです。
80坪ほどあるそうです。中にはすでに200人ほどの人々がいました。僕が入場するのを待っていたかのように開演されました。ラッキーです。演目は「鳥舞」から始まって9つの段があります。それぞれが予想したより激しい動きを伴って、太鼓や足音がドン、ドンと響きます。

僕は、7段あたりの万歳楽? 狂言「土踏まずの法印」を見て、3時近くなってしまったので今日は退散することにしました。帰ってから、前記のように写真をなくしてしまったのでインターネットから写真拝借です。
--------------------------------------
ところで、、、、、
早池峰山の神様は、無理を通してこの山の神様になった方なので、人々の「無理な願い」をかなえてくださる神様なのだそうですよ。他人様のチャンスをちゃっかり横取りするような・・・・・。

僕もこの記事を書きながら、他人様に行くはずの幸運を自分もいただけるよう願ってみたいと思います。

2011年12月12日月曜日

白鳥のふるさと・・・伊豆沼に行ってきました

日曜日。何もすることなく、思い付きでぶらりと伊豆沼に出かけてみました。石巻から1時間くらいです。
若いころ、宮城県に何年か住んでいたので、伊豆沼のことは知っていましたが、僕にとって初めての訪問です。


野鳥の会などは自然保護のために餌付けをしないことになったそうですが、一般の方が鳥たちと触れ合うことは認めています。
このときも一組の親子が水鳥たちと遊んでいました。





そこに別の家族がやってきたのですが、子供たちは足元に寄って来る水鳥たちが怖いのでしょうか、こんな有様です。