2016年6月7日火曜日

出羽三山のこと

山形県には 温泉 が多い。
なんでも、温泉がない町はないそうである。

昨日、参照先でアップしていたので、この写真は出してもいいだろう。
湯殿山である。



芭蕉の句に「たもとを濡らす」云々とあって、想像をたくましくする向きもあるようだが、ここは日本修験発祥の地ともいえる土地であり、ミイラ信仰、即ち即身仏、生まれ変わりを実践しようという、壮絶な修行の場なのである。

厳しい修行で有名な「羽黒派古修験道」によって「擬死再生」を果たすのである。
昔は、男子15歳になると「お山駆け」と言って参籠することがあったという。

即身仏になるためには体脂肪をゼロパーセントにし、体中の水分を出し切って、なおかつそれまで生きて修行しなければならない。

難しいことは抜きにして、今日は出羽三山の紹介をしてみる。地元の観光パンフレットから拾ってみた。
----------引用はじめ----------
出羽三山奥参り
  1400年前に、蜂子皇子によって開かれた出羽。山は羽黒山、月山、湯殿山からなり、それぞれの祭神を祀っています。
  月山、湯殿山は雪深い山頂や渓谷にあり、通年の参拝や参籠が困難なため、羽黒山頂に三山の神々を合祀しました。2446段の石段と、3つの急坂から成る荘厳な杉並木はすなわち神々に至る道なのです。



羽黒山

 今から約1400年前の推古元年(593)、第32代推古天皇の第一皇子蜂子皇子が羽黒山を開かれたのが出羽三山の始まりである。
 羽黒山は三山の神々を合祀するお山であると同時に、ご開祖蜂の子皇子が創立された「羽黒派古修験道」の道場として今に伝える。


       五重塔は、東北では最古、平将門の創建と伝えられる。

月山

 月山は標高1984m、出羽三山の主峰として秀麗な姿で聳え立っている。
 西側の急斜面は深い峡谷に囲まれ、近寄りがたく、東側は穏やかな斜面で、高山植物が群生している。

 古くから霊峰とあがめられ、人々の厚い信仰を集めてきた。
 山頂に鎮座する月山神社本宮は、延喜の制による名神大社で東北唯一の官幣大社であった。
御祭神は「月読命」で、月を象徴する神である。

湯殿山

 古来、出羽三山の奥宮とされ、修験道の霊場であり、「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の世界である。
 湯殿山は月山南西山腹に連なるなだらかな稜線を持つ山で、湯殿山神社本宮は清冽なる梵字川の流れのほとり、幽玄なる峡谷中に鎮座している。

-----------引用終わり---------
ちなみに、羽黒山の合祭殿前の御手洗池は羽黒神の影向する池として鏡池と呼ばれ、平安鎌倉時代に奉納された銅鏡が埋納されている。

 ちなみに「古鏡」は鶴岡市の名物お土産だが、とても美味しい。



2016年6月6日月曜日

今年はサバイバル元年?

フクシマは5年を経過し、一層混迷を深めている。
世界中で地震や火山爆発、洪水などが頻発し、巨大シンクホール、隕石の落下などが多発しているらしい。

ことしはこれらのハザードがより一層威力を増しそうな勢いである。
したがって、僕たちは備えなくてはいけない。何に?

サバイバルゲームが始まったのである。

今朝はもう仕事の時間なので、帰ってから書く。

2016年6月5日日曜日

酒田に来ています

3月11日から6月17までの予定で酒田です。

(写真は記事に関係ないですが長岡市雪国植物園で見つけた日本春蘭です)


パンフレット「さかたさんぽ」によると
頼朝によって義経に加勢した奥州藤原氏が滅亡した時、1189年、藤原秀衡の妹(または後室)が36人の遺臣(36人衆)とともに落ち延びてきて、それぞれ船問屋を営んだといいます。

江戸時代には御用商人川村瑞賢が日本中の航路を再編成し、酒田には米蔵が作られました。これがさかた発展のもととなって、今では日和山に銅像が立っています。(宮城県石巻の日和山にも、同様の理由で銅像が立っています。)

稀代の相場師本間光丘は大金持ちとしてつとに有名ですが、天才は飢饉で太ります。
酒田以外では、有名どころで、火事で太った紀伊国屋。戦争太りの三井三菱もいますね。
他人の不幸は蜜の味と言いますから。。。。

現在の酒田市の顔役は養豚業を営む新田様だそうです。公益大学を作ったり縦横無比の大活躍だそうです。

さて、私ですが、そう、何10年かぶりで湯殿山に行ってきました。ただし、「神域」は写真撮影禁止でしたのでありません。


明治になって、それまでの神仏混交から廃仏毀釈になって、開山が皇族ということもあって仏教色を一掃して神社一色に変わったようです。ですから、「山岳信仰」や「修験道」は変わっていないように見えますが、そうでないところもあるように思われます。

僕は、3日前に幼いころの幽体離脱経験からあることを思いついたのですが、ここまで「即身成仏」や「ミイラ」など酷似した内容が重なってくるとは思いもしませんでした。

弘法大師空海などもここで修業されていますが、即身仏の行法は湯殿山で会得したのではないかと思われます。

本殿前で柏手を打って参拝したら、神前の大鏡に自分の姿が映っていました。鏡を見れば、そこには自分しかいないのは当たり前ですが、なんとなく感動しました。

撮影禁止ということですが、ここ にはこうゆうものがありました。参考まで。





2016年5月27日金曜日

新しい潮流へ

伊勢志摩サミットG7が始まったが、今秋にはG20が中国杭州で開催される。
NATOグループと非NATOの色づけが鮮明になる。

G7では何ら新しいことが打ち出せるわけではない。
沖縄戦について「深い遺憾の意」を示したというオバマだが『でも、戦争だから仕方ないよね』と言っている顔である。

以前、ヒロシマの惨状と原爆を見たときに、オバマ氏は笑いながらガムを噛んでいたTBSの映像があった。

とにかく、露中抜きのサミットの意味は、G7とG20の対立を鮮明にすることでしかない。G7に日本が加わっているということは、日本が「侵略者」の陣営にいるということである。

G7とは、日米英独仏伊加プラスEU、G20は、G7の7か国に、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、韓国、メキシコ、ロシア、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ、欧州連合・欧州中央銀行を加えた20か国・地域のことです。G20からG7+EUを引くとG12となります。トルコとかが微妙ですけどね。

この200年間、G7の国々が世界を侵略しまくってきましたが、そろそろ新しい潮流が生まれるのでしょうか。


2016年5月25日水曜日

今日は何の日だろう


そういえば、日本自衛隊はすでに核武装しているという話もあるが、住友のJCO臨界核実験は1999年9月に小渕総理のもと行われたけど、あの原理を応用すれば超小型中性子爆弾なんてわけなく作れるよね。この核反応は隠れて静かに行うこともできるしね、近くにいた人間は突然死するだけだし。
小渕さんが突然の脳梗塞で倒れたのは、中性子を浴びたせいじゃないよね。

2016年5月24日火曜日

膝の古傷が痛むので

今年の冬は久しぶりにのんびりと過ごした。

しかし、のんびりしすぎで、体が相当参ってしまった。
ひざに痛みが出てきたのだ。
1月。野沢スキー場の整形外科医に見てもらったら、半月板がなんとやらで軽い手技を施してもらった。
半分治ったが、そのままほったらかしにしていたら膝にボウマン感が出てきた。

3月。酒田に出稼ぎに出た。
体力(ひざ)の不安を克服するために運動をすることにした。

爾来、今5月に至るまで早朝体操を実施している。

今朝のメニューは
1.自彊術の半分くらい。
2.木刀振り5-600回(スクワットを入れる)
3.片足バランス 前後左右100回くらいずつ
4.正拳、横拳各100回
5.腿上げ歩き200回
6.その他
計1時間くらい

2ヶ月でだいぶ体は自由が利くようになってきたが、まだまだの感じ。
右ひざは結構しょっちゅう痛い。

この仕事が終わったらもう一度医師に診てもらおうと思っているが、朝1時間くらいのトレーニングは今後必続だろうと思っている。

2016年5月21日土曜日

50年前の僕は天才だったのかも

中学時代にある発見をした。
予習をして授業に出ると、授業が退屈になる。

中学時代に予習をしたのはこのただ一回のみである。
英語は能力別だったが、成績が良いと上のクラスに編入させられる。
上のクラスはほぼ塾通いの子たちだけだった。
坊ちゃん坊ちゃんしているだけで、話がかみ合わないし、
話題も貧困なので、僕はすぐにCクラスに移った。
でも、授業をまじめに聞いていれば、また間もなくAクラス入りしてしまう。
ろくでもないことだ。

高校は県下一のダメ学校だったが、山岳部と合唱と演劇は面白かった。他にも数学や科学、無線などをやった。
しかし、2年生の中頃から学校に行くのはやめてしまった。
学校に行っている暇がなかったのだ。学校は家のすぐ隣にあったのだが。

毎日、小説や哲学書を読んでいた。
学校に通っていたとき以上に、グランドの周回ジョギングはこなしていたし、毎週花塚山のハイキングは欠かさなかった。たぶん、あの学校では僕以上に自己コントロールをしていた生徒はいなかったと思う。自分で作った分刻みのスケジュールに追われる日々の高校時代ではあった。

まぬけな話だが、模擬テストでは歴史が極端に高校時代の弱かった。
学校に行ってないから誰にも教わっていなかったのだ。
でも、必要性を認めて自学自習したらすぐに合格点になった。
自分は天才かも。

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馬鹿げた話だが、高校時代の僕には教師も学友もいなかった。
少なくとも、高校時代の後半1年半以上は、学校にも行かなかった。
防大と旧帝大の一つに合格した時は、さすがに高校に合格の報告に行ったのだが、
僕を知っている先生は一人もいなかった。
それでも、僕は卒業生の一人だった。
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卒業式の日に、「今日ぐらいは出て来いよ」と担任の先生に言われて卒業式に臨んだ。
卒業証書はクラス総代が校長先生から受け取る。それを各教室で担任から分配してもらう。
ぼくら6人はもらえなかった。成績が悪すぎるので、卒業宿題と引き換えに渡すとのこと。
夏休みの宿題のような問題集が渡された。

みんなで仲間の一人のお寺に行って、卒業パーティーが始まった。お寺には有り余る酒があがっている。酒飲みが始まった。僕は宿題係りだ。全部やってから仲間に加わった。
したたかに飲んだ。

翌日は仙台に行かなければいけない。
入試のチェックインを済ませて、3月3日は入学試験だった。
ハードなスケジュールだった。
入学試験の朝、仙台駅からタクシーに乗って仙台一高に向かったが、田舎の学生とみて運ちゃんのからかいにあった。
わざと一高と二高を間違えて大きく遠まわりをしてくれた。
一五分遅刻した。
どこにでも、いかなる時も、意地悪がいるものだ。

僕は、東北大に入学した。