2012年6月12日火曜日

竜ヶ窪湧水地

竜ヶ窪湧水地は十日町の自宅から約30キロ。津南町の誇る名水百選の地である。
近年、事情あって「名水」は返上したそうだが、津南町は清冽な地下水が豊富なところである。

6月初め、自転車で訪ねてみた。
それでも、新潟県森林浴の森百選には入っている。
奥に見えるのが「竜ヶ窪」池塘。

遊歩道途中に採水場がある。
二輪台車にポリタンを積んで運んでいる人と出会った。
駐車場が整備されていて、管理人さんがいることもあるらしい。

湧水地の近くは河岸段丘の丘陵の上。
圃場が広がっている。
標高は高いが、水がポンプで導かれているので水の心配はない。
6月上旬にはすでに田植えが済んでいた。
深い雪のために、やっと田植えができたというべきか。

国道から湧水地までは約8キロの登り道だ。
自転車では少々きついが、なに、短い時間だ、気にしない。
その代り帰り道は楽チンだ。
道端には花が咲き乱れ、眼下には信濃川が美しく流れている。


清津峡

十日町田代から清津峡に向かう。
峠を越えるため標高を稼いでいるのだが、こんなところにも離れ棚田がある。
きっと近くに湧水があるのだろう。

これを作った人、耕す人々のご苦労には頭が下がる。
この地方の人々はこうして働くことに何の抵抗もない。
当たり前のように、働く。

峠の向こう側にも同じ風景が続いている。

峠付近には清津山キャンプ場がある。
10区画のオートキャンプ場、5棟のコテージ。
人気スポットだ。
夏休みの子供たちのために、冬の雪が解けないように保冷貯蔵されていた。

清津峡登山道は、全長13キロ、高低差800メートル(最大500メートル)あり、湯沢町八木沢までの所要9時間の健脚向きのコースだ。
縦走できるのは7月から10月いっぱい。期間限定だ。
ほかの季節は積雪斜面のため通れない。

一般向けに往復1500メートルの渓谷トンネルが用意されている。
所要1時間だ。
4カ所の見晴場が設けてあり、谷の様子や岩肌、古道へつり道などを眺めることができる。(有料)

入り口近くには無料駐車場があり、土産店や民宿旅館などが並んでいる。

一番奥のパノラマステーションからの眺望。
手前のテーブルには3500分の1の地形模型が置いてある。
両岸はグリーンタフの七谷層に陥入したヒン岩で、柱状節理が非常によく発達している。

手前は雪渓の残雪。
すごい光景だ。
かつて飯豊山の沢登りで経験したので「見覚え」があるが、普通の人はびっくりするだろう。


国道353号沿いの清津峡入り口付近。
左の橋のたもとが「ラピーヌ雪街道」。
弘法大師のねじりすぎはこの近くにある。



このようなねじれ木を、他所で1週間以内に再見することになるとは考えもしなかった。


2012年6月11日月曜日

レクイエム---思い出の川俣町(2)---学校編

川俣町立川俣小学校。

今でこそゆったりした平屋建てのオープンスペースの教室が並んでいるが、僕らの時は総二階のコの字型校舎でその一角には僕も通った保育所が併設されていた。
学年370人位いて最初は6クラス(各64名程度)、2年生の時には8クラス(同48名程度)となり、体育館、講堂はすべてベニヤ板で仕切られた急造教室になった。ベビーブームの時代だった。

父は復員後結婚して我々兄弟を5人作ったわけだが、いろいろ事情があって祖父の母屋の裏手に新宅を建て、昭和30年ころからそこに移り住んだ。6畳2間づつの総二階で、粗末な作りだったが楽しかった。父は当初田畑を借りて農業の真似事などをやっていたが、やがて町の水道の仕事をするようになった。母は機織り工場で働く共稼ぎ家庭だった。



桜の木と右下のグランドは当時のままである。授業の休憩時は上の庭で遊ぶことが多く、「ケンケンパ」や「S字陣取りゲーム」などが流行していた。「パッチ」と呼ばれるいわゆるメンコ、ビー玉、とにかく遊んだものだ。

校舎の東隣には春日神社があって、低学年の時から山学校はよくしたものだ。文字通りの山学校で、木々の中に「巣」を作ったり裏山に登ったりした。
一日の終わり、家に帰ると「今日は学校に行ってきたのか?」とよく聞かれたものだ。
教室から抜け出そうとして、教師に何度捕まったかわからない。

放課後はよく祖母に連れられて大野屋さんやあちこちに連れて行ってもらったものだ。ばあちゃんの背中に隠れていつもニコニコしていたので「ニコニコ坊や」と呼ばれた。
小学時代の学校でのあだ名は「今井おやじ」だった。どうしてそう呼ばれたかは勝手に想像してもらうしかない。


桜下の土手は、子供心ながら物思いにふけったり、運動会などを観戦したり、土手遊びに興じたりする場所だ。
ある時、「この土手から飛び降りたら死んじゃうのかなー? 」などと思いつつ飛び降りる誘惑を必死で抑えたりした。
高学年になったとき、中二階の屋根からなら楽々飛び降りることができた。危険がいっぱいの役に立たない技術であった。


この春日様とその裏山、校舎裏の防空壕と呼ばれたトンネルなどが格好の遊び場であった。本殿前の舞台では、祭りになると奉納神楽があったように記憶している。赤い欄干の瓢箪池には亀が住んでいた。向かって左横に大ケヤキが2本あるが、昔はここにも小さな鳥居があった。
当時に比べて非常に侘びしい木のたたずまいであった。

現在の川俣中学校である。この敷地は昔母校の川俣高校があったところで、このすぐ西隣といっていいところに僕の家があった。
当時の中学校は「その(1)」に写っているが、今の南小の場所にあった。
中学は通学に20分くらいかかった。街中を一通り通っていく。
中学では理科や社会科は好きでなかった。特に社会科は抽象的すぎてちんぷんかんぷんであった。英数国は現実が伴っているし、パターンを理解すればすらすらわかった。
あるとき予習が大事だと言われて数学の予習をして行ったのだが、翌日の授業があまりにもつまらなくなってしまい、予習は1日で止めることになった。
当時は新しい流行歌など一回聞けばメロディーも歌詞もある程度暗記できた。だけど歴史や地理などは興味の焦点が定まらなかった。たぶん情熱的な教師がいなかったのか、いても波長が合わなかったのだろう。
とにかく、学校は遊びだった。新聞部活動も、合唱や吹奏楽団も遊びでないものはなかった。なんでも遊びにしてしまうほど、この時代は陽気な時代であった。
ただし、高校進学を前にして多くの級友たちが福島の学校に進学希望なので、担任の教師に進路相談に行くと、「遅刻常習犯のお前は福島などに行けるわけがない」とばっさり。
本当は、福島の学校に行くほど家庭事情は豊かでなかったのだと思う。

川俣高校は、前記のように僕のころは我が家のすぐお隣だった。
中学校で中くらいの成績だった僕でも、この学校では入試の時からいきなりトップに躍り出た。
それでも山岳部や演劇部、新聞部、化学クラブ、合唱団、数学クラブ、等々に入って遊んでばかりいたのだが、2年生の時自分が編集・発行した新聞を回収させられるという「事件」があり、世界文学・哲学全集に挑戦するとか、、、、セブンスデー・アドベンチスト教会の「戒律」は学校で通用するのか(土曜日は安息日だから休みにしろ!!とか)、、、などというくだらない理由から2年生後半からは学校へは行かなくなってしまった。
  ※ 新聞回収の理由は、新校舎移転を間近に控えて、「新しい革袋を用意するなら、中のワイン(教師と生徒)も新しくしなければ単なる浪費でしかない」といういささか過激な内容だったから致し方ない。裏隣りに住む校長先生は当時の僕をひいきにしてくれていたのだが、よほど呆れてしまったことと思う-----
学校など行かなくても毎日は忙しかった。毎月「全集」の本が届くし、花塚山にも毎週登ったし、朝夕は学校のグランドが隣だから毎回20週くらい駆け回っていたし、このころ始めたZ会の問題は解かなければならないし、時間に追われ、朝夕取り違える生活も随分やったものだ。
下の写真は、僕らがいなくなってから移った新校舎である。ここには一度だけ行ったことがある。その後大学入試に合格して元の担任に挨拶に行ったのだ。しかしその試みは大失敗に終わった。僕が合格の報告をすると、先生は「あっそう、、、、」と取り付く島がない。まるで相手にしてもらえなかったので徒手空拳、寂しい想いで校舎を後にした。
学校にも行かないでやりたい放題、お情けで卒業させてもらっていながら、「挨拶」もないものである。至極当然のことではあったが、ほんとに寂しかった。

高校卒業日は3月1日だった。何人かの仲間はその日卒業証書がもらえなかった。なぜだか僕は一年以上学校に行かなかったのに貰うことができた。
その仲間5人位で、小島の頭陀寺に直行した。
卒業の条件に宿題が出され、それを提出したら卒業させてくれるということだった。野田君はこの寺の息子である。上がった酒がいくらでもあるからみんなで酒盛りをやろうということになった。皆が飲んで騒いでいる本堂の横で、僕は全員の宿題に取り組み、終わってから混ざってとことん飲んだ。生まれて初めての「宴会」であった。
深夜、酔っ払い運転のバイクの背に乗せられて帰った。
翌々日には仙台に行って入試を受けなければならないのに、能天気であった。
こうして、僕の川俣町での青春時代が終わりました。

レクイエム---思い出の川俣町(1)

川俣町今井家の墓所は浄土宗の東円寺境内にあります。
川俣町では祖父が初代です。




本堂裏手が墓地になっており、階段を上った途中に我が家の墓地があります。祖父母などがそこに眠っています。



祖父今井登米は、昭和42年僕が高2の時に78歳で亡くなりました。
祖父は、南隣の安達郡針道村(現二本松市)に今井助三郎とカツの二男として生まれ、大正元年祖母タツイと結婚して川俣町新中町に移り住みました。
実家は長男亀鶴の子庄次が継ぎました。
祖父は、今のいわき市などで丁稚奉公をした後川俣町にあった福島県蚕糸試験場に入り、染色の技術を学び、後に今井染物店を開業しました。試験場でのノウハウもあり、同業の方への指導などもしていたようです。
また、中庭では鶏を飼い、染色に使う大釜で大豆を煮て、味噌・醤油正月のお餅などをついたりして近所・親戚などの注文も取ったりしていました。僕も餅つきや配達を手伝った覚えがあります。石臼で大豆を引いて豆腐作りもしました。
竈は薪を燃やします。僕も薪割りの手伝いをしました。染工場は神聖であると同時に興味の尽きない遊び場でもありました。
ある日、祖父は薪割り中に脳卒中で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。

東円寺裏手の墓地の奥に川俣町中央公園があります。
ここには、川俣町に養蚕技術を伝えた女神小手子姫の像があります。
(以下、ウィキペディアより引用)

小手子(こてこ)は、第32代天皇崇峻天皇の妃。大伴連糠手(おおとものむらじぬかて)の娘。崇峻天皇との間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女を儲ける。
日本書紀』には、小手子が天皇の寵愛が衰えたことを恨み、献上された猪を見て天皇が漏らした「何の時かこの猪の頸を断るがごとく朕が嫌しと思うところの人を断らむ」という独り言を、蘇我馬子に密告したことが、崇峻天皇暗殺事件のきっかけとなったという記述がある。
(ブログ主注: 荒唐無稽な記事ですよね! 自分の夫の今上天皇を殺させ、そのために自分や吾が子も追われて東北の地に逃走しなければならないなんて、あ・り・え・な・い。)
小手子には、現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」がある。
小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市出羽三山の開祖となったと伝えられるが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びた。
(今もこの地には大伴、大友、伴などの名字の一族が住んでいる。)
旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町伊達市月舘町の地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたという。
その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられている。                  (引用終了)




今年の中央公園はちょうど花盛りでした。311の翌年の平日のせいか、人々の姿はまばらでした。とても静かです。



中央公園の南にある御霊神社です。この広場は昔からあり、僕の通った旧川俣中学校がよく見渡せました。古いギターを持ち出して名曲「禁じられた遊び」の真似事などをしていたのを思い出します。



丸い台形の盛り上がったところに「後庵舘」の跡地があり、今は機織神社が祀られています。
小手子姫は芋ヶ作という処に住んでいましたが、後に尼となってここに移り住んだとも伝えられています。はるか出羽の国月山に流れた吾が子に会えなくなったことを儚んで入水したのはこの後のことかもしれません。
ちなみに、町の東方には花塚山という山がありますが、この中腹には放鹿神社というのがあります。小手子姫が遠く奈良の地を想い鹿を放したことが名の起こりといわれています。山名はここからきているといわれています。
また、花塚山の山頂付近には出羽三山が祀られており、小手子姫は時折この頂に登り遠き出羽の国の方角を焦がれつつ望んだということです。

近くにある川俣高校の女子高生たちが何人か立ち寄っていました。

でも、この花々は小手子への祈りなのかもしれません。




福島市から川俣町に向かう途中に、千貫森山というひときわ人目を引く小山があります。
そこには小手神社がまつられています。
昔、伊達正宗が参勤交代の折、乗馬が突然暴れだして落馬してしまったそうです。正宗公は当地より望見される小手郷の小手神大明神のご神威に触れたと思い、この社を建てて祀ったそうです。
この当時、小手郷と呼ばれる川俣町一帯がご神域であったことが窺われます。

以前は登山道のいたるところに「宇宙人」の石像がありましたが、今はどうなのでしょうか。




近年、この千貫森山はUFOの飛来地として有名になりました。この山の近くにUFOの基地があるのではないかともっぱらの評判です。
千貫森山の所在する旧飯野町ではUFOによる町おこしをしていました。この施設もUFO関連の展示をしていました。温泉施設も付属しています。



町内を流れる広瀬川(小手川)です。114号線の旧道に橋がかかっています。橋の手前に由緒あるホテル川俣、向こうに見えるのが清水屋菓子舗、奥の桜山が中央公園です。
広瀬川北岸にある岩松山常泉寺の山門が見えます。中学時代ここのお寺の住職の深沼良光先生が国語の教師をされていて、特に漢文の勉強は楽しかったです。読み下し分の前に必ず棒読みをさせていました。漢詩なら中国風のリズムというか抑揚をつけて読んでくださいました。みんなそれを唱和したものです。

2012年6月9日土曜日

感心しない熟年旅行団体

以下は、武田邦彦さんのブログからの引用です。
読んで思わず同感してしまったので転載します。
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http://takedanet.com/2012/06/post_26ee.html

(引用開始)
旅をする機会が多いので、修学旅行の生徒、若い人の団体、それに熟年の旅行団体に遭遇することがあります。
公衆道徳という点から採点するなら、最悪:熟年、まあまあ:若い人、比較的純情:修学旅行、という感じです。
最近はあまり言われなくなりましたが、よく「近頃の若い者は」と言いますが、私には(私を含めて)熟年がもっとも悪いように見えます。

なんと言ってもその「傍若無人ぶり」が目につきます。

お年を召しているから仕方が無いところもありますが、まず第一に服装が汚らしいという点があります。
一人ひとりは一応、ちゃんとしていても集団となると酷いことになっています。
これはデザイナーの問題でもあるでしょう。
自分の服装は自分勝手ではありますが、それでも集団が動いていると、「異様な感じ」とか「汚い」というイメージですと、街の雰囲気に影響を与えます。黒、薄い茶などをメインにした服装は集団ではどうも問題です。

第二に「うるさい」ということです。熟年の集団と一緒になるとまずあきらめなければならないのは「静かな空間」です。
男はお酒を飲んで大声、女はしゃべり通しという状態が普通です。
特に、ヒコーキや列車で熟年団体と一緒になると、降りるまで喧噪の中にいなければなりません.グループの中の道徳は守っているようですが、グループの外は全く見えないという感じです.
「俺たちは老人なのだから、何をやっても良いのだ」という態度がグループ全体にみなぎっています.
かつて農協団体が海外で顰蹙を買ったことがありましたが、まさにその現代版が熟年旅行団体のように感じられます.
上品で綺麗な団体に見えるように、なにか私たち熟年で相談し、研究し、尊敬される熟年になりたいものです。(引用終わり)
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そういえば、ホテルや温泉場の大浴場に入った時、下のほうをろくろく洗わず、あるいはサッとお湯をかけただけで湯船に入ってくる人いますよね。
自分のケツぐらいちゃんと洗ってから入れっちゅうの!!!!! (笑)

2012年6月6日水曜日

鼓腹撃壌

現今の消費税騒動についての中部大学の武田邦彦先生のコメントです------------

「前の選挙で民主党が政権を取ったが、そのことによって現在の日本は総選挙について次のような状態にある。
1)選挙で主たる公約としたことの正反対が行われる、
2)公約と正反対なことに首相が「政治生命をかける」ということが起こる、
3)従って、総選挙は意味が無い。 来年の総選挙に原発が争点になっても意味は無い。
というのは、原発反対を公約にした政党が政権を取ったら「原発推進に政治生命をかける」と変化するからだ」


「今の政府は「国民をいじめ、電力を優遇する」とうことで徹底し、それをマスコミが支持しています。マスコミの記者さんも自らの魂に問いかけ、ものの本質をじっくり考えて欲しいと思います。」

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石炭、ガス発電を推進すべきであるとの持論展開。地下資源についてはこれから百年以上心配な状態にはならないという確信から-------------
「アメリカや中国は節電していません。節電している国は、節電していない国に絶対に負けます。とりあえず原発が動かないので、大至急、資源の心配の無い天然ガス、石炭の火力発電所を作る「新しい電力会社」をつくることです。」
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この日本でも欧米諸国と同じように、元貴族および成上り貴族たちが好きなように政治・経済を動かしているようです。彼らは大会社の経営と公務に当たっています。彼らの前に民主主義や選挙など無意味なことは明らかなようです。

私たちは、鼓腹撃壌というか、おいしいものを食べ、憂さを忘れて酒、花に酔い、楽しくおかしく人生を過ごすのがいいんでしょうねぇ。。。。

2012年6月4日月曜日

石巻から帰ってきました

7カ月の石巻勤務から新潟に帰ってきました。

被災地の悲惨さ、復興景気の盛り上がりなどを見てきましたが、少しの静養ののち今度は兵庫県加古川市になりそうです。具体的な指示があるまでのんびり?

世の中を見ると世界中が大騒ぎのようですね。
消費税増税をテコに小沢追い落としをたくらむ財界と政界。野田があれだけドジョウ面ができるのは背後に巨大権力があるからでしょう。国民の知らないエリート集団。

ヨーロッパも中東も大変です。各国を指導するエリートたちは、この人類をどこに向かわせようとしているのでしょうか? それとも考えているのはそれぞれのお家の安泰と目先の利権でしょうか?

我々庶民は気楽です。自分の腹を叩いて、愉快に過ごせばいいのですから。
菊池直子が逮捕されようが、北朝鮮で何かが変だのと報道されようが、医者や銀行や政治が実は詐欺師集団だったと判明しようが、ビールのつまみ、ストレス発散の小道具にしかなりません。

テレビや新聞をこんなにゆっくり読めること自体が世間離れの気がします。
このわずかなひと時を大事に過ごしたいと思います。