2012年6月11日月曜日

レクイエム---思い出の川俣町(2)---学校編

川俣町立川俣小学校。

今でこそゆったりした平屋建てのオープンスペースの教室が並んでいるが、僕らの時は総二階のコの字型校舎でその一角には僕も通った保育所が併設されていた。
学年370人位いて最初は6クラス(各64名程度)、2年生の時には8クラス(同48名程度)となり、体育館、講堂はすべてベニヤ板で仕切られた急造教室になった。ベビーブームの時代だった。

父は復員後結婚して我々兄弟を5人作ったわけだが、いろいろ事情があって祖父の母屋の裏手に新宅を建て、昭和30年ころからそこに移り住んだ。6畳2間づつの総二階で、粗末な作りだったが楽しかった。父は当初田畑を借りて農業の真似事などをやっていたが、やがて町の水道の仕事をするようになった。母は機織り工場で働く共稼ぎ家庭だった。



桜の木と右下のグランドは当時のままである。授業の休憩時は上の庭で遊ぶことが多く、「ケンケンパ」や「S字陣取りゲーム」などが流行していた。「パッチ」と呼ばれるいわゆるメンコ、ビー玉、とにかく遊んだものだ。

校舎の東隣には春日神社があって、低学年の時から山学校はよくしたものだ。文字通りの山学校で、木々の中に「巣」を作ったり裏山に登ったりした。
一日の終わり、家に帰ると「今日は学校に行ってきたのか?」とよく聞かれたものだ。
教室から抜け出そうとして、教師に何度捕まったかわからない。

放課後はよく祖母に連れられて大野屋さんやあちこちに連れて行ってもらったものだ。ばあちゃんの背中に隠れていつもニコニコしていたので「ニコニコ坊や」と呼ばれた。
小学時代の学校でのあだ名は「今井おやじ」だった。どうしてそう呼ばれたかは勝手に想像してもらうしかない。


桜下の土手は、子供心ながら物思いにふけったり、運動会などを観戦したり、土手遊びに興じたりする場所だ。
ある時、「この土手から飛び降りたら死んじゃうのかなー? 」などと思いつつ飛び降りる誘惑を必死で抑えたりした。
高学年になったとき、中二階の屋根からなら楽々飛び降りることができた。危険がいっぱいの役に立たない技術であった。


この春日様とその裏山、校舎裏の防空壕と呼ばれたトンネルなどが格好の遊び場であった。本殿前の舞台では、祭りになると奉納神楽があったように記憶している。赤い欄干の瓢箪池には亀が住んでいた。向かって左横に大ケヤキが2本あるが、昔はここにも小さな鳥居があった。
当時に比べて非常に侘びしい木のたたずまいであった。

現在の川俣中学校である。この敷地は昔母校の川俣高校があったところで、このすぐ西隣といっていいところに僕の家があった。
当時の中学校は「その(1)」に写っているが、今の南小の場所にあった。
中学は通学に20分くらいかかった。街中を一通り通っていく。
中学では理科や社会科は好きでなかった。特に社会科は抽象的すぎてちんぷんかんぷんであった。英数国は現実が伴っているし、パターンを理解すればすらすらわかった。
あるとき予習が大事だと言われて数学の予習をして行ったのだが、翌日の授業があまりにもつまらなくなってしまい、予習は1日で止めることになった。
当時は新しい流行歌など一回聞けばメロディーも歌詞もある程度暗記できた。だけど歴史や地理などは興味の焦点が定まらなかった。たぶん情熱的な教師がいなかったのか、いても波長が合わなかったのだろう。
とにかく、学校は遊びだった。新聞部活動も、合唱や吹奏楽団も遊びでないものはなかった。なんでも遊びにしてしまうほど、この時代は陽気な時代であった。
ただし、高校進学を前にして多くの級友たちが福島の学校に進学希望なので、担任の教師に進路相談に行くと、「遅刻常習犯のお前は福島などに行けるわけがない」とばっさり。
本当は、福島の学校に行くほど家庭事情は豊かでなかったのだと思う。

川俣高校は、前記のように僕のころは我が家のすぐお隣だった。
中学校で中くらいの成績だった僕でも、この学校では入試の時からいきなりトップに躍り出た。
それでも山岳部や演劇部、新聞部、化学クラブ、合唱団、数学クラブ、等々に入って遊んでばかりいたのだが、2年生の時自分が編集・発行した新聞を回収させられるという「事件」があり、世界文学・哲学全集に挑戦するとか、、、、セブンスデー・アドベンチスト教会の「戒律」は学校で通用するのか(土曜日は安息日だから休みにしろ!!とか)、、、などというくだらない理由から2年生後半からは学校へは行かなくなってしまった。
  ※ 新聞回収の理由は、新校舎移転を間近に控えて、「新しい革袋を用意するなら、中のワイン(教師と生徒)も新しくしなければ単なる浪費でしかない」といういささか過激な内容だったから致し方ない。裏隣りに住む校長先生は当時の僕をひいきにしてくれていたのだが、よほど呆れてしまったことと思う-----
学校など行かなくても毎日は忙しかった。毎月「全集」の本が届くし、花塚山にも毎週登ったし、朝夕は学校のグランドが隣だから毎回20週くらい駆け回っていたし、このころ始めたZ会の問題は解かなければならないし、時間に追われ、朝夕取り違える生活も随分やったものだ。
下の写真は、僕らがいなくなってから移った新校舎である。ここには一度だけ行ったことがある。その後大学入試に合格して元の担任に挨拶に行ったのだ。しかしその試みは大失敗に終わった。僕が合格の報告をすると、先生は「あっそう、、、、」と取り付く島がない。まるで相手にしてもらえなかったので徒手空拳、寂しい想いで校舎を後にした。
学校にも行かないでやりたい放題、お情けで卒業させてもらっていながら、「挨拶」もないものである。至極当然のことではあったが、ほんとに寂しかった。

高校卒業日は3月1日だった。何人かの仲間はその日卒業証書がもらえなかった。なぜだか僕は一年以上学校に行かなかったのに貰うことができた。
その仲間5人位で、小島の頭陀寺に直行した。
卒業の条件に宿題が出され、それを提出したら卒業させてくれるということだった。野田君はこの寺の息子である。上がった酒がいくらでもあるからみんなで酒盛りをやろうということになった。皆が飲んで騒いでいる本堂の横で、僕は全員の宿題に取り組み、終わってから混ざってとことん飲んだ。生まれて初めての「宴会」であった。
深夜、酔っ払い運転のバイクの背に乗せられて帰った。
翌々日には仙台に行って入試を受けなければならないのに、能天気であった。
こうして、僕の川俣町での青春時代が終わりました。

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