2011年12月4日日曜日

心そこらあらざれば・・・




今日も、つい石巻市の被災地を見に出かけてしまいました。
打ち上げられた船はまだあります。
船のへさきの部分に見えるのが、民謡で名高い日和山です。

次の写真は石巻漁港付近からですが、うっすらと虹が出ているのが見えるでしょうか?
復興の努力は確実に前進しています。

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先週までは、被災地の写真は恐る恐る撮っていました。
今は同化する気持ちが働いていると思います。
先週まではまだ距離があった感じですが、徐々に心がその中に入って行ってます。
その気持ちが、今日も「現場」に足を向けさせたようです。

でも・・・・・早く帰りましょう。


南相馬市に行ってきました


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連休がとれたので少しドライブです。
今月から高速道路無料なので、一部道路、例えば塩釜から石巻に向かう下り路線は朝8時過ぎですが大渋滞でした。被災地へ向かう人々の「出勤風景」です。

福島市の様子は普段と変わらないように見えました。車窓から見るだけなので本当のことはわかりません。
現に、唯一といっていいある友人は、すでに淡路島に転居していますから。。。
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川俣町。3.11以来これで5回目の訪問です。いずれも、物置きとなってしまった我が家にモノを置いたり取ったりするのみの用事で、滞在1時間程度の日帰りです。
一時飯舘村の母の実家の家族たちが避難占拠していました。

近くには大型量販店が立ち並びます。この町は双葉町や浪江町などの住民の方が「遠くへ」の号令のもと逃れた場所です。その後は計画避難地域になった山木屋地区の方、飯舘村の方などが続々と避難してきましたから、人口は倍増したのです。
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その飯舘村を経由して南相馬市に入りました。
飯舘村の家々は、少なくとも街道筋から見る限り、人影こそないものの荒れ果てた様子はありません。ご近所に避難して、時々様子を見に通っているからでしょうか。
母の実家は一昨年新築したばかりです。 すぐ近くにある、母の妹の嫁ぎ先も新築10年とたっていないのですが、やがて住んでもいいようになるのでしょうか、、、、

今年作付けをしなかった広大な田畑はさびしい木枯らしの中にたたずんでいました。
何年も前になりますが、飯舘村から南相馬市原町区に向かう県道の近くで、およそ100頭にもなろうというニホンザルの大軍を見たことがありました。冬の陽だまりの中、サルたちは田んぼの暖かい場所に出て、毛づくろいなどをしていました。

何年かたった時、この土地から巨大ひまわりや巨大トマト、奇形化したサルの赤ちゃんなどが出てくるのでしょうか。
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南相馬市に入ると、いつもの平静さが戻っていました。
ただ、兄のパン工房は事業継続をあきらめて売却されたので、別の方の看板がかかっていました。
兄は今、復興支援で働いています。

2時ごろには終わるというので、国道6号線の東側を見てくることにしました。
海岸から何キロかのところに、小さな船が取り残されていました。また津波をもろにかぶった老人ホームは壊れた建物だけが残っていました。民家も波を受けたままのところが点在しています。

石巻や三陸地方は街並みが集中していて、がれき処理はまとめて行われましたが、南相馬市では家屋が点在していること、福島原発の関連で南側の道路が遮断されていること、被ばくへの恐怖心など、「できない理由」ばかり目立ちます。

懐かしい烏崎漁港や、右田浜海水浴場などの周囲はすべて津波に巻き込まれ、堤防も所々破壊されていました。

25年前、若くて有為の青年を集めて実施していたフレンドシップトレーニングの会場にもなっていた福島県海浜青年の家。ここへは道路が寸断されていて行けませんでした。

そして、相馬共同火力新地発電所、相馬漁港、松川浦と見てまわりました。
建物の位置関係で難を逃れた家・建物や、相当の費用をつぎ込んで復興したお店などがありました。
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福島市も、川俣町も、南相馬市も、今震災バブルの最中だそうです。
被災しなかった事業主の中には「焼け太り」でにんまり…の組も多いようです。

避難された方や、復興支援の方で人口があふれ、様々な事業費が投入され、避難されている方もとりあえずの住居、家財道具、生活費が渡されているので、とりあえず以前よりましな生活をしている人も多いそうです。

復興支援の義捐金で賄われたテレビ、冷蔵庫やこたつなどは同じ家族でも所帯ごとに来るので、三人家族で3組もらい、かえって人の寝るところがない・・・・などという笑い話もあります。
湯たんぽなど不必要な支援物資も多いし、毛布などは必要数の3倍くらいあるそうです。
石巻の友人もそうでしたし、南相馬市の兄の知り合いにもそういう人が多いそうです。

ある夫婦は同棲状態だったのでそれぞれが仮設住宅と家財と生活資金を渡されたものの、別のところに改めて一緒に住んで、仮設住宅はそれぞれ義捐品置き場に化しているそうです。

また、復興に向けた仕事はいくらでもあり、求人も出ているのだけれど、当面は義捐金などで生活できるので仕事をしない人も多いそうです。

でも、これらのことはとやかく申すべきではありません。
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帰途、仙台の多賀城あたりから再び渋滞が始まりました。
被災地はこれから厳しい冬を迎えようとしています。

今回は写真はつけませんでした。
この日の海は波が高かったのですが、壊れた堤防の隙間に打ち付ける波は、一段と激しく見えました。





2011年11月27日日曜日

松島に行ってきました

案内人は石巻の人、あべちゃんです。
ホテル一の坊を少し入ったところに、カキを食わしてくれるところがあるから…ということで出かけました。
その近くの直売所によってわかめ汁をいただき、酒のつまみを少々購入しました。
  あかま水産の左が杉原功商店・・松島町磯崎100 022-345-2319
このチョイ先に件の店があるというのです。






松島のいたるところで魚介類の串焼きが売られている。
これは当たり前ですが、焼きカキだけの店もあります、この通り。これは不思議な光景ではないでしょうか。
生カキをを必要なだけ注文して、ここで食べたいだけ食べるのです。
でも、僕はあきらめました。
近ごろ3キロも太ってしまったから?
ドライバーだから酒なしのおかずは食えない?
悲しい事実に気が付きました。






気を取り直して、遊覧船に乗ってみることにしました。
僕たちの船は第三仁王丸。入船は第二芭蕉丸です。
そして、出船の海を紅葉の島が見送ってくれました。






船上には観光客、この船も次の船も満員です。
海上には釣り人。ここも結構賑わっています。






有名な≪仁王島≫です。今回の地震・津波でも大丈夫だったようです。
もちろん、波浪による浸食によって首の部分が細くなったり不安定になったりするのを防ぐために、鋼鉄の芯柱が埋め込まれ、首にも太いマフラーがまかれています。





湾内には大小さまざまな有人、無人の島々が200以上もあるそうです。
そのため、津波の被害は比較的小さかったとも言えます。被災された方もいらっしゃるので、断定はできません。






船はわずかな航跡を残してさらに進みますが、やがて海はいつもの静かな海に戻ります。
僕たちの戻るところは、いつもの港です。



五大堂です。この五大堂には五大明王様という方が祭られているそうです。
50分の船旅はあっという間におしまいです。


帰途、塩釜仲卸市場によってきました。
買ったのは魚藤 ふじや商店  塩釜市新浜町1丁目20-74 022-362-9541



オチというか・・・
結局この日食べたのは、フツーのみそラーメンのみでした。
こんなことなら、生カキ15枚をあべちゃんと二人で焼いて食べたほうがかしこかったかも。
ちなみに、あべちゃんとは最初の写真の左に映っているいかつい男のことです。


2011年11月22日火曜日

石巻、女川の被災地の写真

日和山公園の眼下に広がる破壊しつくされた町

石巻は遠洋漁業の町でもあった

石巻市民病院

あれから8か月がたつというのに…

こんな光景がどこまでも続く

すべて流された女川の町。丘の上は病院

倒れた建物

2011年11月20日日曜日

石巻市に来てしまいました



今月6日に石巻に到着です。
13日の日曜日には、釜石、大船渡、南三陸を見てきました。
昨日19日は、牡鹿半島を一周して雄勝まで行きました。

やわらかに 柳青める 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに

北上の岸辺とは、三陸の岸辺ということでしょう。
岸辺という岸辺、入江という入り江、すべてが津波にのみつくされていました。

このブログに掲載するために写真を撮ろうとしましたが、誰か人がいるところではなかなかカメラを構えることができませんでした。

言葉になりません。


読売新聞は戦争をけしかけようとしている


読売新聞は社説の中でイランを制裁すべきだと言っている。
それは、IAEAの天野之弥がイランが核兵器を開発していると言ったからだ。

これは10年前のイラクの時と同様、嘘で固めた言い訳で戦争を始めようとしているのだろう。
イラクの時も、相手国が核兵器または大量破壊兵器を持たないことを確認したうえで、難癖をつけて攻撃している。

アメリカや読売新聞は、丸腰の相手にはめっぽう強い。
「お前の母ちゃんでーべそ!」
とかいって、手を挙げた丸腰相手に拳銃をぶっ放すのだ。

IAEAの天野はイランの核兵器の現物を確認したわけでもないのに、いや核兵器を持っていないことを確認したがゆえに、これで怖いものなしと確認したがゆえに、戦争をあおりだしたのだ。

何しろアメリカという国は、やらせとおとり捜査が正義面してまかり通る国なのだから。

私たちも、それと知りながらいやいやでも権力に従うしか方法がない。
しかし、その権力と同調することだけは絶対できない。

(写真はマフラーをしている釜石観音)

2011年11月2日水曜日

発電コストって…



                  写真は 昨日の新潟県津南町秋山郷です


政府や新聞はこれだけの欺瞞を平気で流す。

(以下、引用です)
原発事故コスト、従来の発電費用の2割
(2011年10月25日13時54分 読売新聞)  原子力発電所事故に伴う損害額などを試算する内閣府原子力委員会の小委員会(座長=鈴木達治郎・原子力委員長代理)は25日、日本の原発が過酷事故を起こす確率は最大で500年に1回で、1基あたりの標準的な損害額は3兆8878億円、将来の損害に備えるために必要な費用は、従来の発電コストの約2割にあたる1キロ・ワット時あたり1・1円とする試算を発表した。

日本の原発が事故を起こす確率は、全国の原発がこれまでに延べ時間数で1400年あまり稼働してきたなかで福島第一原発1~3号機が過酷事故を起こしたことを根拠に、「500年に1回」と算定  これをもとに事故に伴うコストを計算すると、1キロ・ワット時あたり0・9~1・2円となった。標準的な稼働率70%の場合は1・1円。こうした事故が起きる確率として国際原子力機関(IAEA)が新設炉に求める安全目標値は、「10万年に1回」だった

(以上引用おわり)
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500年に一回だの、10万年に一回だのっていうけど、例えば日本の場合最初の原発起動から約35年になるわけだけど、それぞれの原発稼働時間の合計は1400年になるそうだから、普通の時間感覚からすればほぼ10年に一回はフクシマのような事故が起こるという計算になる。

さらに、事故コストが1円程度とすると電気代の1割以下ということになる。
しかし、過去35年はこのコストを支払わないできたのだから、今回まとめて請求され、そのことを考えると通常の電気代の3倍の事故コストがかかるということになる。