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連休がとれたので少しドライブです。
今月から高速道路無料なので、一部道路、例えば塩釜から石巻に向かう下り路線は朝8時過ぎですが大渋滞でした。被災地へ向かう人々の「出勤風景」です。
福島市の様子は普段と変わらないように見えました。車窓から見るだけなので本当のことはわかりません。
現に、唯一といっていいある友人は、すでに淡路島に転居していますから。。。
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川俣町。3.11以来これで5回目の訪問です。いずれも、物置きとなってしまった我が家にモノを置いたり取ったりするのみの用事で、滞在1時間程度の日帰りです。
一時飯舘村の母の実家の家族たちが避難占拠していました。
近くには大型量販店が立ち並びます。この町は双葉町や浪江町などの住民の方が「遠くへ」の号令のもと逃れた場所です。その後は計画避難地域になった山木屋地区の方、飯舘村の方などが続々と避難してきましたから、人口は倍増したのです。
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その飯舘村を経由して南相馬市に入りました。
飯舘村の家々は、少なくとも街道筋から見る限り、人影こそないものの荒れ果てた様子はありません。ご近所に避難して、時々様子を見に通っているからでしょうか。
母の実家は一昨年新築したばかりです。 すぐ近くにある、母の妹の嫁ぎ先も新築10年とたっていないのですが、やがて住んでもいいようになるのでしょうか、、、、
今年作付けをしなかった広大な田畑はさびしい木枯らしの中にたたずんでいました。
何年も前になりますが、飯舘村から南相馬市原町区に向かう県道の近くで、およそ100頭にもなろうというニホンザルの大軍を見たことがありました。冬の陽だまりの中、サルたちは田んぼの暖かい場所に出て、毛づくろいなどをしていました。
何年かたった時、この土地から巨大ひまわりや巨大トマト、奇形化したサルの赤ちゃんなどが出てくるのでしょうか。
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南相馬市に入ると、いつもの平静さが戻っていました。
ただ、兄のパン工房は事業継続をあきらめて売却されたので、別の方の看板がかかっていました。
兄は今、復興支援で働いています。
2時ごろには終わるというので、国道6号線の東側を見てくることにしました。
海岸から何キロかのところに、小さな船が取り残されていました。また津波をもろにかぶった老人ホームは壊れた建物だけが残っていました。民家も波を受けたままのところが点在しています。
石巻や三陸地方は街並みが集中していて、がれき処理はまとめて行われましたが、南相馬市では家屋が点在していること、福島原発の関連で南側の道路が遮断されていること、被ばくへの恐怖心など、「できない理由」ばかり目立ちます。
懐かしい烏崎漁港や、右田浜海水浴場などの周囲はすべて津波に巻き込まれ、堤防も所々破壊されていました。
25年前、若くて有為の青年を集めて実施していたフレンドシップトレーニングの会場にもなっていた福島県海浜青年の家。ここへは道路が寸断されていて行けませんでした。
そして、相馬共同火力新地発電所、相馬漁港、松川浦と見てまわりました。
建物の位置関係で難を逃れた家・建物や、相当の費用をつぎ込んで復興したお店などがありました。
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福島市も、川俣町も、南相馬市も、今震災バブルの最中だそうです。
被災しなかった事業主の中には「焼け太り」でにんまり…の組も多いようです。
避難された方や、復興支援の方で人口があふれ、様々な事業費が投入され、避難されている方もとりあえずの住居、家財道具、生活費が渡されているので、とりあえず以前よりましな生活をしている人も多いそうです。
復興支援の義捐金で賄われたテレビ、冷蔵庫やこたつなどは同じ家族でも所帯ごとに来るので、三人家族で3組もらい、かえって人の寝るところがない・・・・などという笑い話もあります。
湯たんぽなど不必要な支援物資も多いし、毛布などは必要数の3倍くらいあるそうです。
石巻の友人もそうでしたし、南相馬市の兄の知り合いにもそういう人が多いそうです。
ある夫婦は同棲状態だったのでそれぞれが仮設住宅と家財と生活資金を渡されたものの、別のところに改めて一緒に住んで、仮設住宅はそれぞれ義捐品置き場に化しているそうです。
また、復興に向けた仕事はいくらでもあり、求人も出ているのだけれど、当面は義捐金などで生活できるので仕事をしない人も多いそうです。
でも、これらのことはとやかく申すべきではありません。
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帰途、仙台の多賀城あたりから再び渋滞が始まりました。
被災地はこれから厳しい冬を迎えようとしています。
今回は写真はつけませんでした。
この日の海は波が高かったのですが、壊れた堤防の隙間に打ち付ける波は、一段と激しく見えました。
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