2012年6月12日火曜日

レクイエム-----思い出の川俣町(3)---飯舘も含めて

僕は今年、新潟県の(避難者のための)住宅借り上げ制度を利用して、十日町市に越してきました。
写真のような、単身乃至小世帯のための新築アパートです。
初めて訪れた1月は、ものすごい雪の中に立っていました。
--------------------------------------------------------------
4月には住民票も移しました。
そこて゜、少しだけ故郷川俣町の思い出をたどっているわけです。

川俣町は阿武隈山系の盆地にある小さな町です。最盛期の昭和30年代には人口3万人くらいでしたが、今はその半分です。

昔から絹織物が盛んで、特に明治以降は羽二重といわれる軽め絹の産地として名を馳せました。
教科書にも載っていましたね。

ですから、絹商人ためのホテル、銀行、日銀支店なども真っ先に作られています。
終戦期の風船爆弾をアメリカまで飛ばしたことで有名な原町(現南相馬市)の電波塔も、ニューヨークの絹相場をいち早く伝えるために建造されてものと聞いています。この電波塔はその後取り壊されたため、現在は20分の1モデルのミニチュアがぽつんと立っているのみです。

写真は飯舘村に近い峠の森自然公園から見た川俣盆地です。
川俣町役場跡です。去年の地震で壊れたため、現在は中央公民館や保健センターに役場機能は引っ越しました。
飯舘村には母の生家があります。ご先祖様は明治期に新潟から移り住んだ人で、屋号もズバリ「越後屋」です。
震災後計画避難区域に指定されたため、実家の人々は村外への移転を余儀なくされてしまいました。

近所には親戚の家もありますが、無論避難中です。

母の実家の家族たちは一時的に僕の住んでいたアパートに仮寓したこともありました。

僕の母は数年前から老人ホームのお世話になっていますが、何か所かの病院やホームを転々としたうえで、現在は避難区域になっている飯舘村役場のそばでけなげに営業している特養いいたてホームに入居しています。

枕元には86歳の誕生日の時の写真と、米寿を迎えた去年、父と一緒に写った写真が飾られていました。

今は、誰が訪ねてきたか判る気配はないのですが、薄く目を開けて虚空を見つめたりします。

ホールでは介護士の皆さんがお年寄りの方々を集めて、歌を唄ったり、楽しげな時間を過ごしていました。

この日、隣町川俣町の避難区域になっていない場所である御霊神社に設置された放射能測定器は0.618マイクロシーベルト/hを示していました。飯舘村ではこの2倍近くになります。

避難されている人々の苦労は報われることはあるのでしょうか?


0 件のコメント:

コメントを投稿