2012年6月17日日曜日

加西市一乗寺と加古川

6月14日、兵庫県は加古川に着任した。
16日の土曜日、どこというあてもなく、西国33か所札所のうち26番目、加西市坂元町の法華山一乗寺を訪ねた。
開基からして凄い。
印度国霊鷲山の五百持明仙の随一・法道仙人であるという。
西暦649年、孝徳天皇の勅によって本堂を建立し、一乗寺の勅額を賜ったという。
札所の指定は987年花山法王によるという。
(御詠歌) 春は花 夏は橘 秋は菊  いつも妙なる 法の華山
金堂といわれる本堂・大悲閣は重要文化財、
三重塔は藤原様式と言われ、国宝に指定されている。


昨日の大雨のせいだろうか。
池の水は濁り、いたるところが大洪水である。

山門の大杉は少し前に落雷に会って、倒れかけた大枝はごく最近取り払われたばかりという。
奥の院への参道は今もがけ崩れなどのために通行止めだ。

それでなくとも、次の写真の光景には心が沈んでしまうところだ。




いつの世も、栄華は巡るのさ。
お釈迦様自身が言っていたではないか。
「永遠」なんて存在しない。
すべてのものが移ろいゆく、、、と





この日は加古川市に戻って駅前を散策した。
「ながはえ公園」というところで、「ねじりヒバ」に出会った。
十日町市の「弘法のねじりすぎ」を思い出した。

田代、小松原、津南


十日町市田代。
幾つめの故郷になるのだろうか。
初めて訪ねた1月2月は、3メートルの雪に覆われていた。

その田代地区を後ろに見ながら道を上り詰めていく。
小松原湿原は、眼下の釜川の源頭にある。
林道のような砂利道を進んでやっと近づいたと思ったその場所は、車両が近づくことのできない道だった。
夕暮れの一人歩きは危険だ。何の装備もない。
諦めるしかなかった。



気を取り直してグリーンピア津南に向かう。
まず「ローラーリュージュ」がお出迎えだ。
左のカタパルトはリュージュ用のリフト。竜樹のハンドルを引くと低速、押すと高速だ。
夏休みの、子供たちの歓声が聞こえそうだった。



見渡す限りの土地がグリーンピア。
いくつもの自然探勝地が施設を取り巻いている。
特にホテルの前庭は開放感があってとてもすがすがしい。

玄関先には可愛いポニーが乗客を待っている。
すぐその先には、羊たちが飼われていた。




先日文ちゃんと出かけた見玉不動尊の茶店も近くにあった。




津南町の河岸段丘、棚田、この土地が日本一のおいしいお米を作っている。

2012年6月12日火曜日

レクイエム-----思い出の川俣町(3)---飯舘も含めて

僕は今年、新潟県の(避難者のための)住宅借り上げ制度を利用して、十日町市に越してきました。
写真のような、単身乃至小世帯のための新築アパートです。
初めて訪れた1月は、ものすごい雪の中に立っていました。
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4月には住民票も移しました。
そこて゜、少しだけ故郷川俣町の思い出をたどっているわけです。

川俣町は阿武隈山系の盆地にある小さな町です。最盛期の昭和30年代には人口3万人くらいでしたが、今はその半分です。

昔から絹織物が盛んで、特に明治以降は羽二重といわれる軽め絹の産地として名を馳せました。
教科書にも載っていましたね。

ですから、絹商人ためのホテル、銀行、日銀支店なども真っ先に作られています。
終戦期の風船爆弾をアメリカまで飛ばしたことで有名な原町(現南相馬市)の電波塔も、ニューヨークの絹相場をいち早く伝えるために建造されてものと聞いています。この電波塔はその後取り壊されたため、現在は20分の1モデルのミニチュアがぽつんと立っているのみです。

写真は飯舘村に近い峠の森自然公園から見た川俣盆地です。
川俣町役場跡です。去年の地震で壊れたため、現在は中央公民館や保健センターに役場機能は引っ越しました。
飯舘村には母の生家があります。ご先祖様は明治期に新潟から移り住んだ人で、屋号もズバリ「越後屋」です。
震災後計画避難区域に指定されたため、実家の人々は村外への移転を余儀なくされてしまいました。

近所には親戚の家もありますが、無論避難中です。

母の実家の家族たちは一時的に僕の住んでいたアパートに仮寓したこともありました。

僕の母は数年前から老人ホームのお世話になっていますが、何か所かの病院やホームを転々としたうえで、現在は避難区域になっている飯舘村役場のそばでけなげに営業している特養いいたてホームに入居しています。

枕元には86歳の誕生日の時の写真と、米寿を迎えた去年、父と一緒に写った写真が飾られていました。

今は、誰が訪ねてきたか判る気配はないのですが、薄く目を開けて虚空を見つめたりします。

ホールでは介護士の皆さんがお年寄りの方々を集めて、歌を唄ったり、楽しげな時間を過ごしていました。

この日、隣町川俣町の避難区域になっていない場所である御霊神社に設置された放射能測定器は0.618マイクロシーベルト/hを示していました。飯舘村ではこの2倍近くになります。

避難されている人々の苦労は報われることはあるのでしょうか?


秋山郷

今回の秋山郷は、国道117号大割野から見玉不動に入り、秋谷総合センター「とねんぼ」を見て、「のよさの里」で蕎麦を食い、なごみ温泉にのんびり浸かるというコースだ。

中津川渓谷の河岸段丘の見事な発達ぶり。
平地部は一面の田園地帯となっており、山の恵み、川の恵み、魚沼のコシヒカリの豊かな実りがそこにある。

見玉不動尊の参道横を流れる清冽な沢。
このお不動さんは眼病に効くというので、途中の水汲み場で一口いただき、ついでに「目」も洗って帰った。

入口駐車場付近には2軒の土産店があり、里山の材料で作ったさまざまな漬物、つくだ煮などが所狭しと並べてある。
試食可。お茶も出る。

公共の宿「のよさの里」。
温泉もある。
各客室は優雅に渡り廊下で結ばれている。
ゆったりとした自然と時間を共有することができる。

近くにはキャンプ場も併設されている。
玄関先からは鳥甲(とりかぶと)山が荒々しくそそり立っている。


竜ヶ窪湧水地

竜ヶ窪湧水地は十日町の自宅から約30キロ。津南町の誇る名水百選の地である。
近年、事情あって「名水」は返上したそうだが、津南町は清冽な地下水が豊富なところである。

6月初め、自転車で訪ねてみた。
それでも、新潟県森林浴の森百選には入っている。
奥に見えるのが「竜ヶ窪」池塘。

遊歩道途中に採水場がある。
二輪台車にポリタンを積んで運んでいる人と出会った。
駐車場が整備されていて、管理人さんがいることもあるらしい。

湧水地の近くは河岸段丘の丘陵の上。
圃場が広がっている。
標高は高いが、水がポンプで導かれているので水の心配はない。
6月上旬にはすでに田植えが済んでいた。
深い雪のために、やっと田植えができたというべきか。

国道から湧水地までは約8キロの登り道だ。
自転車では少々きついが、なに、短い時間だ、気にしない。
その代り帰り道は楽チンだ。
道端には花が咲き乱れ、眼下には信濃川が美しく流れている。


清津峡

十日町田代から清津峡に向かう。
峠を越えるため標高を稼いでいるのだが、こんなところにも離れ棚田がある。
きっと近くに湧水があるのだろう。

これを作った人、耕す人々のご苦労には頭が下がる。
この地方の人々はこうして働くことに何の抵抗もない。
当たり前のように、働く。

峠の向こう側にも同じ風景が続いている。

峠付近には清津山キャンプ場がある。
10区画のオートキャンプ場、5棟のコテージ。
人気スポットだ。
夏休みの子供たちのために、冬の雪が解けないように保冷貯蔵されていた。

清津峡登山道は、全長13キロ、高低差800メートル(最大500メートル)あり、湯沢町八木沢までの所要9時間の健脚向きのコースだ。
縦走できるのは7月から10月いっぱい。期間限定だ。
ほかの季節は積雪斜面のため通れない。

一般向けに往復1500メートルの渓谷トンネルが用意されている。
所要1時間だ。
4カ所の見晴場が設けてあり、谷の様子や岩肌、古道へつり道などを眺めることができる。(有料)

入り口近くには無料駐車場があり、土産店や民宿旅館などが並んでいる。

一番奥のパノラマステーションからの眺望。
手前のテーブルには3500分の1の地形模型が置いてある。
両岸はグリーンタフの七谷層に陥入したヒン岩で、柱状節理が非常によく発達している。

手前は雪渓の残雪。
すごい光景だ。
かつて飯豊山の沢登りで経験したので「見覚え」があるが、普通の人はびっくりするだろう。


国道353号沿いの清津峡入り口付近。
左の橋のたもとが「ラピーヌ雪街道」。
弘法大師のねじりすぎはこの近くにある。



このようなねじれ木を、他所で1週間以内に再見することになるとは考えもしなかった。


2012年6月11日月曜日

レクイエム---思い出の川俣町(2)---学校編

川俣町立川俣小学校。

今でこそゆったりした平屋建てのオープンスペースの教室が並んでいるが、僕らの時は総二階のコの字型校舎でその一角には僕も通った保育所が併設されていた。
学年370人位いて最初は6クラス(各64名程度)、2年生の時には8クラス(同48名程度)となり、体育館、講堂はすべてベニヤ板で仕切られた急造教室になった。ベビーブームの時代だった。

父は復員後結婚して我々兄弟を5人作ったわけだが、いろいろ事情があって祖父の母屋の裏手に新宅を建て、昭和30年ころからそこに移り住んだ。6畳2間づつの総二階で、粗末な作りだったが楽しかった。父は当初田畑を借りて農業の真似事などをやっていたが、やがて町の水道の仕事をするようになった。母は機織り工場で働く共稼ぎ家庭だった。



桜の木と右下のグランドは当時のままである。授業の休憩時は上の庭で遊ぶことが多く、「ケンケンパ」や「S字陣取りゲーム」などが流行していた。「パッチ」と呼ばれるいわゆるメンコ、ビー玉、とにかく遊んだものだ。

校舎の東隣には春日神社があって、低学年の時から山学校はよくしたものだ。文字通りの山学校で、木々の中に「巣」を作ったり裏山に登ったりした。
一日の終わり、家に帰ると「今日は学校に行ってきたのか?」とよく聞かれたものだ。
教室から抜け出そうとして、教師に何度捕まったかわからない。

放課後はよく祖母に連れられて大野屋さんやあちこちに連れて行ってもらったものだ。ばあちゃんの背中に隠れていつもニコニコしていたので「ニコニコ坊や」と呼ばれた。
小学時代の学校でのあだ名は「今井おやじ」だった。どうしてそう呼ばれたかは勝手に想像してもらうしかない。


桜下の土手は、子供心ながら物思いにふけったり、運動会などを観戦したり、土手遊びに興じたりする場所だ。
ある時、「この土手から飛び降りたら死んじゃうのかなー? 」などと思いつつ飛び降りる誘惑を必死で抑えたりした。
高学年になったとき、中二階の屋根からなら楽々飛び降りることができた。危険がいっぱいの役に立たない技術であった。


この春日様とその裏山、校舎裏の防空壕と呼ばれたトンネルなどが格好の遊び場であった。本殿前の舞台では、祭りになると奉納神楽があったように記憶している。赤い欄干の瓢箪池には亀が住んでいた。向かって左横に大ケヤキが2本あるが、昔はここにも小さな鳥居があった。
当時に比べて非常に侘びしい木のたたずまいであった。

現在の川俣中学校である。この敷地は昔母校の川俣高校があったところで、このすぐ西隣といっていいところに僕の家があった。
当時の中学校は「その(1)」に写っているが、今の南小の場所にあった。
中学は通学に20分くらいかかった。街中を一通り通っていく。
中学では理科や社会科は好きでなかった。特に社会科は抽象的すぎてちんぷんかんぷんであった。英数国は現実が伴っているし、パターンを理解すればすらすらわかった。
あるとき予習が大事だと言われて数学の予習をして行ったのだが、翌日の授業があまりにもつまらなくなってしまい、予習は1日で止めることになった。
当時は新しい流行歌など一回聞けばメロディーも歌詞もある程度暗記できた。だけど歴史や地理などは興味の焦点が定まらなかった。たぶん情熱的な教師がいなかったのか、いても波長が合わなかったのだろう。
とにかく、学校は遊びだった。新聞部活動も、合唱や吹奏楽団も遊びでないものはなかった。なんでも遊びにしてしまうほど、この時代は陽気な時代であった。
ただし、高校進学を前にして多くの級友たちが福島の学校に進学希望なので、担任の教師に進路相談に行くと、「遅刻常習犯のお前は福島などに行けるわけがない」とばっさり。
本当は、福島の学校に行くほど家庭事情は豊かでなかったのだと思う。

川俣高校は、前記のように僕のころは我が家のすぐお隣だった。
中学校で中くらいの成績だった僕でも、この学校では入試の時からいきなりトップに躍り出た。
それでも山岳部や演劇部、新聞部、化学クラブ、合唱団、数学クラブ、等々に入って遊んでばかりいたのだが、2年生の時自分が編集・発行した新聞を回収させられるという「事件」があり、世界文学・哲学全集に挑戦するとか、、、、セブンスデー・アドベンチスト教会の「戒律」は学校で通用するのか(土曜日は安息日だから休みにしろ!!とか)、、、などというくだらない理由から2年生後半からは学校へは行かなくなってしまった。
  ※ 新聞回収の理由は、新校舎移転を間近に控えて、「新しい革袋を用意するなら、中のワイン(教師と生徒)も新しくしなければ単なる浪費でしかない」といういささか過激な内容だったから致し方ない。裏隣りに住む校長先生は当時の僕をひいきにしてくれていたのだが、よほど呆れてしまったことと思う-----
学校など行かなくても毎日は忙しかった。毎月「全集」の本が届くし、花塚山にも毎週登ったし、朝夕は学校のグランドが隣だから毎回20週くらい駆け回っていたし、このころ始めたZ会の問題は解かなければならないし、時間に追われ、朝夕取り違える生活も随分やったものだ。
下の写真は、僕らがいなくなってから移った新校舎である。ここには一度だけ行ったことがある。その後大学入試に合格して元の担任に挨拶に行ったのだ。しかしその試みは大失敗に終わった。僕が合格の報告をすると、先生は「あっそう、、、、」と取り付く島がない。まるで相手にしてもらえなかったので徒手空拳、寂しい想いで校舎を後にした。
学校にも行かないでやりたい放題、お情けで卒業させてもらっていながら、「挨拶」もないものである。至極当然のことではあったが、ほんとに寂しかった。

高校卒業日は3月1日だった。何人かの仲間はその日卒業証書がもらえなかった。なぜだか僕は一年以上学校に行かなかったのに貰うことができた。
その仲間5人位で、小島の頭陀寺に直行した。
卒業の条件に宿題が出され、それを提出したら卒業させてくれるということだった。野田君はこの寺の息子である。上がった酒がいくらでもあるからみんなで酒盛りをやろうということになった。皆が飲んで騒いでいる本堂の横で、僕は全員の宿題に取り組み、終わってから混ざってとことん飲んだ。生まれて初めての「宴会」であった。
深夜、酔っ払い運転のバイクの背に乗せられて帰った。
翌々日には仙台に行って入試を受けなければならないのに、能天気であった。
こうして、僕の川俣町での青春時代が終わりました。