2011年12月29日木曜日

変調? I love You

クリスマスの日以来僕はおかしい。

特に昨夜はそうだ。
本年納会のお神酒を会社からいただき、ひとりで飲み過ぎたせいもあるが、大事な人と電話をしながら今日になってみたらその内容が思い出せない・・・・・・・!!!。

僕にとってものすごく大事なことなのだ。

昨日呑み出したのは午後3時ごろ。夕方にはすでに5合ほど飲んで出来上がっていたかも。
情けない。
情けなくて、これからはその大事な人と一緒の時以外は禁酒にしようか・・・などと考えたりする始末だ。

粘土オヤジ
クレイジーだ
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今の自分は相当変だ。
60余年の人生の中でもこんなことは滅多にあるものではない。
大の大人が--------と、あきれてしまう。

クリスマスの恋風邪で熱がとまらない!!!!!!!!!------------
俺はほんとに狂ってしまったらしい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

I love You.




2011年12月27日火曜日

雪の十日町

クリスマスの雪は、豪雪地帯の十日町ではすでに2メートルくらい積もったといいます。

僕は、10月に柏崎にいたころ十日町経由で津南町の秋山郷にぶらっと行ったときにとおりました。
その時の僕には、有名なヘギソバをどこかで食べようとしか考えが及びませんでした。


次の写真は笹山の火焔土器ですが、縄文の古い立派な歴史もあるんですね。
津南町なら、NHKの「天地人」の直江兼続の生まれたところといいますよね。
「愛」の兜飾りが有名になりました。
調べるとこのドラマのオープニングに、この付近のナントカ峠の映像が使われているということなので、、NHKオンデマンドで「天地人」のオープニングを見ましたが、デフォルメが強くてあまりはっきりは分かりませんでした。


これからこの町はもっともっと雪が降り積もるのでしょうか。
雪はすべてのものを真っ白に覆い尽くす魔法のベール。
ある意味「魔性」の雪の一側面でもあります。



これからの季節、こんな除雪作業が毎日の生活の中に織り込まれるのでしょう!!
すごいです。


ところで、昔の十日町小唄から・・・

一)越後名物 かずかずあれど
  明石ちぢみに 雪の肌
  着たら放せぬ味のよさ
    ※テモサッテモ ソジャナイカ
      テモ ソジャナイカ

(二)娘ざかりを なじょして暮らす
   雪に埋れて 機仕事
   花の咲く間じゃ 小半年 ※

(四)人が見たらば 横丁へよけて
   雪のトンネル 隠れ場所
   恋の抜け道 まわり道 ※

(九)汽車を止めるよな 吹雪の中も
   止めて止まらぬ 恋の道
   思いつめれば 一筋に ※


2011年12月24日土曜日

ルータン ボイジャー

昨日の天皇誕生日は、世界で初めて無着陸・無給油で世界一周飛行をしたルータンボイジャーの偉業達成日です。

ここで、その業績をたたえ、ウィキペディアの記事を再録します。
映画が作れそうですよね。
それにしても、記事にもあるように食事と排泄はどうしてたのでしょうか??

(以下全文引用です)



ルータン ボイジャー (Rutan Voyager) は1986年に初めて無着陸・無給油での世界一周飛行を成し遂げたアメリカ固定翼機である。操縦はディック・ルータン (en:Dick Rutan) とジーナ・イェーガー (en:Jeana Yeager) によってなされ、機体の設計・製作はディックの弟で著名な航空技術者であるバート
・ルータン
を中心として行われた。エンテ型飛行機垂直尾翼のついた双ブームを持ち、2つのプロペラエンジンを主胴体の前後に配置した特徴的な外見を持つ機体であった。

世界一周計画発案までの経緯 [編集]

ディック・ルータンは元アメリカ空軍の士官であり、ベトナム戦争にも参加して数々の勲章を授与されたベテランパイロットであった。一方、その弟のバート・ルータンは1970年代当時バリ・イージークイッキー(en:Rutan Quickie)といった特徴的なホームビルト機 (en:homebuilt aircraft) を製作していた新進気鋭の航空技術者であった。二人は共同で航空機製造会社(スケールド・コンポジッツの前身)を営み、ディックはバートの製作した航空機のテストパイロットを務めていた。

1980年、カリフォルニア州・チノ (Chino) の航空ショーに参加していたディックとバートはそこでジーナ・イェーガーに出会った。イェーガーは製図士として働く女性で航空機や実験機に興味を持っており、20代半ばにはヘリコプター免許を取得しているほどであった。その後イェーガーとディックは恋仲となり、イェーガーはディックの会社に誘われてテストパイロットとして働くこととなった。イェーガーはそこでロング・イージーの最高速度記録をマークしている。

1981年、無着陸・無給油での世界一周飛行をディックとイェーガーが発案し、それを達成可能な機体の設計依頼がバートに持ちかけられた。その当時、無給油での最長距離飛行記録はB-52によって1962年に成し遂げられた20,168 kmであり、またバートと共にクイッキーを製作した航空機製造会社 (en:Quickie Aircraft) が同時期に無着陸・無給油の世界一周飛行を計画していたものの実行されることはなかったため、このような挑戦は非常に野心的であった。バートは二人の提案に応じて機体を設計し、モデル76の型番を与えた。そしてイェーガーはその機体を"ボイジャー"(航海者の意)と名付けた。

機体の設計・開発 [編集]

ボイジャーはバートが初期に手がけたバリ・ビゲンやバリ・イージーと同じくエンテ型の翼配置を採用し、前翼(カナード翼)端から主翼中央部を通って機体後方に突き出した左右2本のブーム先端にそれぞれ1枚ずつの垂直尾翼を備えていた。翼のアスペクト比誘導抗力を減らすために大きく取られ、非常に細長いものとなった。なるべく機体を軽くし、かつ十分な強度を持たせるために構造材料としてはガラス繊維炭素繊維それにケブラーといった強化繊維と樹脂との複合材料である、繊維強化プラスチック (FRP) が多用された。エンジンの配置は牽引式プロペラ用と推進式プロペラ用を機体の前後にそれぞれ1基ずつ装備するという一見変わったものであった。エンジンとして当初はライカミング (en:Lycoming Engines) 製のO-235(空冷式、出力約110hp)を搭載していたが、後に牽引用としてコンチネンタル (en:Continental Motors) 製のO-240(空冷、130hp)、推進用として同じくコンチネンタルのIOL-200(液冷、110hp)に換装している。なお、牽引用と推進用を両方作動させるのは離陸上昇時だけで、飛行が安定したら後部の推進用エンジンのみで巡航する仕様となっていた。

機体の製作は主にバート、ディック、イェーガーの三人とボランティアの手によって進められ、計画に必要な資金の大部分も個人的な寄付に頼っていた。製作には約4年の時を費やし、1984年6月22日にようやく初飛行に成功した。その後1年半ほどかけて試験と改良を行い、1986年12月には計画を実行するための準備が整った。

計画の実行 [編集]

離陸時に破損した主翼端部

1986年12月14日午前8時1分(現地時刻)、ディックとイェーガーを乗せたボイジャーはカリフォルニア州エドワーズ空軍基地から記録飛行に出発した。機体には燃料(ガソリン)が満載されていたため、離昇までに約4.3kmも滑走することとなった(同基地は世界で最大規模の滑走路を持ち、その長さは約4.6kmであった)。この際、主翼内部の燃料の重みで主翼がたわんで地面と接触し、両翼端をそれぞれ30cm近くもぎ取られるというトラブルがあったが、特別支障がないと判断され、飛行はそのまま続行された。

飛行にはいくつかの困難がつきまとった。最も危険であったのはタイフーンのような悪天候であった。また天候の悪い地域を避けたり素早く通過するために余分な燃料が費やされ、さらにリビアでは領空の通過が許されなかったために大幅に迂回せざるを得ず、燃料残量は常に二人の懸案となった。ディックとイェーガーには未だかつてない長時間飛行に耐える精神力も求められた。二人は2-3時間ごとに操縦を交替していたが、コックピットは人2人がやっと入れるくらいの大きさしかなかったために疲労を十分に拭い去ることは難く、密閉空間での食事や排泄を含めた生活はストレスを与えるものだった。

カリフォルニア州に戻ってきた辺りで機体片側の燃料ポンプが故障するというトラブルがあったものの、12月23日午前8時6分、ボイジャーは世界一周を果たしてエドワーズ空軍基地に帰還した。この時点で燃料はほとんど残っておらず、無事に帰れたのは努力と幸運の結果であった。総航続時間9日3分44秒、国際航空連盟公認の航続距離40,212kmという大々的な記録を達成し、平均飛行速度は187km/hであった。この功績によりルータン兄弟とイェーガーは当時のレーガン大統領から表彰されている。

記録達成の後、ボイジャーは国立航空宇宙博物館に寄贈されて展示されている。なおボイジャーの打ち立てた無着陸・無給油での最速の世界一周時間記録と最長航続距離記録はそれぞれ2005年と2006年にジェット機バージン・アトランティック グローバルフライヤー (en:Virgin Atlantic GlobalFlyer) によって破られている。この機体の設計にもバート・ルータンが関わっており、製作はスケールド・コンポジッツが中心となって行われた。



2011年12月18日日曜日

岩手県大迫町で大償神楽を見た





今日はなぜか大迫町の早池峰神楽を見るハメになってしまいました。

休日だからといって、ホテルの部屋に閉じこもりきりというのも芸がないと思い、あてなくハンドルを握りました。

北に向かって走っているうちに、なんとなく早池峰山の登山口の旅籠集落を見たいと思い、ナビで調べたら山の博物館があるというのでそこをターゲットにして行きました。

岩手県に入るや周りは真っ白な雪景色に変わりました。さすがに千正夫が「北国」といっただけあります。ナビは花巻インターから大迫町に導いていきます。
博物館は丘の上にあって、途中の道路はわずかに圧雪状態でした。

じつは、この後も同様で、写真も約30枚ほどとってきたのですが、パソコンにアップしようとしているうちに、誤ってデータを消去してしまい、全滅です。
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しかたなく、記憶のあるうちに記録することにします。

一つ驚いたのは、学生時代の山岳部の先輩だと思いますが、百々幸雄さんが発掘したという弥生人の幼児の埋葬跡を発見したという展示物でした。医学者が人骨調査…? 新しい≪発見≫でした。
同時に、「オレはいったい何をやっているんだ・・・・・」との思いが頭をよぎりました。

気を取り直してその他を見ていたら、「植村直己と仲間たち」というパンフレットが目に入りました。彼が亡くなる半年前に、私は彼を福島県青少年会館に招待して講演をしていただき、夜は少しですがビールを飲み交わした思い出があります。彼の非常に謙虚な当時の姿が目によみがえりました。

さらに見ていたら、大迫町では神楽が国の重要無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産に登録されており、しかも今日が大償神楽の舞い納め日となっているではありませんか!!
開演時間など書いてありまませんでしたのでとにかく行ってみることにしました。

会場は神楽の館。見ると入口にいちばん近いところの駐車スペースが空いております。もちろん周りはうっすらと雪化粧の中です。北上山地でも大きな曲り屋の一つだった民家の母屋を移築して平成の「ふるさと創生資金」で建設した施設だそうです。
80坪ほどあるそうです。中にはすでに200人ほどの人々がいました。僕が入場するのを待っていたかのように開演されました。ラッキーです。演目は「鳥舞」から始まって9つの段があります。それぞれが予想したより激しい動きを伴って、太鼓や足音がドン、ドンと響きます。

僕は、7段あたりの万歳楽? 狂言「土踏まずの法印」を見て、3時近くなってしまったので今日は退散することにしました。帰ってから、前記のように写真をなくしてしまったのでインターネットから写真拝借です。
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ところで、、、、、
早池峰山の神様は、無理を通してこの山の神様になった方なので、人々の「無理な願い」をかなえてくださる神様なのだそうですよ。他人様のチャンスをちゃっかり横取りするような・・・・・。

僕もこの記事を書きながら、他人様に行くはずの幸運を自分もいただけるよう願ってみたいと思います。

2011年12月12日月曜日

白鳥のふるさと・・・伊豆沼に行ってきました

日曜日。何もすることなく、思い付きでぶらりと伊豆沼に出かけてみました。石巻から1時間くらいです。
若いころ、宮城県に何年か住んでいたので、伊豆沼のことは知っていましたが、僕にとって初めての訪問です。


野鳥の会などは自然保護のために餌付けをしないことになったそうですが、一般の方が鳥たちと触れ合うことは認めています。
このときも一組の親子が水鳥たちと遊んでいました。





そこに別の家族がやってきたのですが、子供たちは足元に寄って来る水鳥たちが怖いのでしょうか、こんな有様です。


月に願いを…

12月10日。今日は満月…と思っていたら、「皆既月食があるよ」と誰かが教えてくれました。
土曜日でも仕事だったので、ホテルに帰ったら早速松島に出かけて、月見のスポットといわれる観光桟橋前広場で見ることにしました。
夜の7時半ともなると、さすがに人っ子一人いません。寒い夜空に、僕と同じく一人ぼっちの月がかかっていました。




観光桟橋前の公園からライトアップされた五大堂を撮りました。松の木の上にちょこっと見えるのが五大堂の屋根です。
先月はここで茶会などが開かれたそうです。松島のイベント広場といったところでしょうか。





月食までは時間がありすぎるので、とりあえず腹ごしらえをしてホテルに戻ることにしました。
煌々と明かりがともっているのが「石田屋」さんです。
さすがに先客は一組5名の男性客のみでした。日本人2名、中国人2名が共通語英語という形で為替変動のことを話していました。
さて、前日12月8日は大潮でした。この店の女将によると、3.11の津波によって、海岸一帯の地盤が相当沈下しているらしく、建物前に駐車場があるのですが、そこまで潮が満ちてきたそうです。ですから、大潮の時間が近づくと駐車場には車を止めないほうがいいということでした。



「石田屋」さんのおかみさんです。掛け時計の下に矢印が書かれた紙が貼ってあります。津波の後でも時計は動いていたので、少なくともここまで水につかったということです。彼女はもっと上まで来ていたと言ってます。それでも、経営継続か否かの選択に迫られた結果、これからの老い先、店と運命を共にしようと戻ってきたそうです。




月食はホテルに戻ってから見ることにしました。
太陽、地球、月が一直線になるのは当然深夜しかありません。23時過ぎには月の形がほとんど見えなくなりましたが、ないものは撮れないので、22時半の月食のみ載せます。外は氷点近くまで冷え込んできました。

2011年12月4日日曜日

何をやっているんだか・・・・


一見シリアスに見える被災地を巡りながら、車のオーディオからは大音量の音楽が流れています。

最初の4時間は、オペラ座の怪人の映画版のCDと、連続してロンドン公演初演スタッフによる録音の聞き比べです。
作曲家は同じですが、中身は全然違うのでどちらがいいとかの世界ではありませんでした。

要するに、僕はこんなものにはまりつつ、被災地の見学もしているというちゃらんぽらんな一日を送っていたわけです。これは昨日のこと。

昨日はついでに「インモータルズ」の映画を見に行ってしまいました。
ホントに何をしているんだか・・・・・
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今日は今日で、マイケルジャクソンの新レーベル「インモータル」を聞きながらの被災地めぐりです。不謹慎といわれそうです。 
しかし、はっきり言って「インモータル」はたいしたことないです。買って使って初めてわかるものの価値かな。
気をとり直して、ジャクソン5時代の曲を聴きながら帰途につきました。

で、マイケルのまだ調べていないCD探しにツタヤに行って、またコレクションを増やしたり、ミュージカル「マンマ・ミーヤ」のCDとDVDをアマゾンで注文したりと、わけのわからない一日を過ごし、終いは借りてきたサラ・ブライトマンのDVD、「La Luna」を見ているとは、ほんとに中途半端な一日二日でした。

「インモータル---神々の戦い」では「誰かを守るための戦いが尊い」と言っているんですがね。
誰かって誰?


心そこらあらざれば・・・




今日も、つい石巻市の被災地を見に出かけてしまいました。
打ち上げられた船はまだあります。
船のへさきの部分に見えるのが、民謡で名高い日和山です。

次の写真は石巻漁港付近からですが、うっすらと虹が出ているのが見えるでしょうか?
復興の努力は確実に前進しています。

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先週までは、被災地の写真は恐る恐る撮っていました。
今は同化する気持ちが働いていると思います。
先週まではまだ距離があった感じですが、徐々に心がその中に入って行ってます。
その気持ちが、今日も「現場」に足を向けさせたようです。

でも・・・・・早く帰りましょう。


南相馬市に行ってきました


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連休がとれたので少しドライブです。
今月から高速道路無料なので、一部道路、例えば塩釜から石巻に向かう下り路線は朝8時過ぎですが大渋滞でした。被災地へ向かう人々の「出勤風景」です。

福島市の様子は普段と変わらないように見えました。車窓から見るだけなので本当のことはわかりません。
現に、唯一といっていいある友人は、すでに淡路島に転居していますから。。。
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川俣町。3.11以来これで5回目の訪問です。いずれも、物置きとなってしまった我が家にモノを置いたり取ったりするのみの用事で、滞在1時間程度の日帰りです。
一時飯舘村の母の実家の家族たちが避難占拠していました。

近くには大型量販店が立ち並びます。この町は双葉町や浪江町などの住民の方が「遠くへ」の号令のもと逃れた場所です。その後は計画避難地域になった山木屋地区の方、飯舘村の方などが続々と避難してきましたから、人口は倍増したのです。
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その飯舘村を経由して南相馬市に入りました。
飯舘村の家々は、少なくとも街道筋から見る限り、人影こそないものの荒れ果てた様子はありません。ご近所に避難して、時々様子を見に通っているからでしょうか。
母の実家は一昨年新築したばかりです。 すぐ近くにある、母の妹の嫁ぎ先も新築10年とたっていないのですが、やがて住んでもいいようになるのでしょうか、、、、

今年作付けをしなかった広大な田畑はさびしい木枯らしの中にたたずんでいました。
何年も前になりますが、飯舘村から南相馬市原町区に向かう県道の近くで、およそ100頭にもなろうというニホンザルの大軍を見たことがありました。冬の陽だまりの中、サルたちは田んぼの暖かい場所に出て、毛づくろいなどをしていました。

何年かたった時、この土地から巨大ひまわりや巨大トマト、奇形化したサルの赤ちゃんなどが出てくるのでしょうか。
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南相馬市に入ると、いつもの平静さが戻っていました。
ただ、兄のパン工房は事業継続をあきらめて売却されたので、別の方の看板がかかっていました。
兄は今、復興支援で働いています。

2時ごろには終わるというので、国道6号線の東側を見てくることにしました。
海岸から何キロかのところに、小さな船が取り残されていました。また津波をもろにかぶった老人ホームは壊れた建物だけが残っていました。民家も波を受けたままのところが点在しています。

石巻や三陸地方は街並みが集中していて、がれき処理はまとめて行われましたが、南相馬市では家屋が点在していること、福島原発の関連で南側の道路が遮断されていること、被ばくへの恐怖心など、「できない理由」ばかり目立ちます。

懐かしい烏崎漁港や、右田浜海水浴場などの周囲はすべて津波に巻き込まれ、堤防も所々破壊されていました。

25年前、若くて有為の青年を集めて実施していたフレンドシップトレーニングの会場にもなっていた福島県海浜青年の家。ここへは道路が寸断されていて行けませんでした。

そして、相馬共同火力新地発電所、相馬漁港、松川浦と見てまわりました。
建物の位置関係で難を逃れた家・建物や、相当の費用をつぎ込んで復興したお店などがありました。
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福島市も、川俣町も、南相馬市も、今震災バブルの最中だそうです。
被災しなかった事業主の中には「焼け太り」でにんまり…の組も多いようです。

避難された方や、復興支援の方で人口があふれ、様々な事業費が投入され、避難されている方もとりあえずの住居、家財道具、生活費が渡されているので、とりあえず以前よりましな生活をしている人も多いそうです。

復興支援の義捐金で賄われたテレビ、冷蔵庫やこたつなどは同じ家族でも所帯ごとに来るので、三人家族で3組もらい、かえって人の寝るところがない・・・・などという笑い話もあります。
湯たんぽなど不必要な支援物資も多いし、毛布などは必要数の3倍くらいあるそうです。
石巻の友人もそうでしたし、南相馬市の兄の知り合いにもそういう人が多いそうです。

ある夫婦は同棲状態だったのでそれぞれが仮設住宅と家財と生活資金を渡されたものの、別のところに改めて一緒に住んで、仮設住宅はそれぞれ義捐品置き場に化しているそうです。

また、復興に向けた仕事はいくらでもあり、求人も出ているのだけれど、当面は義捐金などで生活できるので仕事をしない人も多いそうです。

でも、これらのことはとやかく申すべきではありません。
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帰途、仙台の多賀城あたりから再び渋滞が始まりました。
被災地はこれから厳しい冬を迎えようとしています。

今回は写真はつけませんでした。
この日の海は波が高かったのですが、壊れた堤防の隙間に打ち付ける波は、一段と激しく見えました。