2013年6月29日土曜日

湯沢アルプの里

去年より1週間遅れの訪問でした。
今年は咲いている花の種類、量とも極貧状態。
・・・でも、せっかくだから楽しまないと・・・













2013年6月28日金曜日

八海山3時間

八海山ロープウェイ
往復1800円

山頂までの往復、3時間半。ただし、天気と体力を知り尽くしての軽装で。
つまり・・・手ぶら登山でした。

ロープウェイを降りたら、まずは安全祈願…


この季節、まだ少し残雪がある。
ついこないだまで雪に閉じ込められていたのに、
妙に懐かしい…


八海山は神の山。
稜線に出るとこのように祀られている。


高嶺の花花が出迎えてくれます。
ところどころには、優しい案内板が添えられています。
山小屋まであと40分。がんばれ・・・




山小屋を通り過ぎて振り返ると、あたりは一面のガスでした。
足元ばかり見ていると気が付かないものです。




まず、地蔵岳です
稜線が狭くなってきます。



遠雷が鳴った。
午後から曇の予想だし。
ここから先は、天気がいい時に訪れてみたい。
相当やばい道らしい。






一人の軽装登山では相当覚悟がいるらしい。
天気も怪しいし、下ることにしました。
先ほど通ったところに、
美しい一輪が待っていてくれました。


六日町から八箇峠に向かう道から振り返りました。
八海山が神々しく聳えていました。


2013年6月9日日曜日

人生の引き際くらいは自分で決めたいね

50歳を迎えた時、「そろそろ安岡正徳の言う〈死計〉すなわち棺桶に入るための心構えを固めておかなくてはな」と思ったものだが、あれから13年。何も書くとしたものが考え出せずにここまで来てしまった。

両親のこと、周囲の年配者のこと、医療、宗教・・・いろんなことを考えてもなかなかいい答えが出てこない。
石原慎太郎の「ババア発言」もあった。
マネして「社会的に生きてる価値がなくなったら、引退だよね」などと軽はずみに口走ったら、連れ合いからこっぴどく怒られてしまった。


ただ、自分のことを考えると、

1. 寝たきりや植物人間状態で生き延びることは嫌だ。
2. 闘病の末でも、結果そのまま死んでしまうのは嫌だ。
3. してやりたいことがあるうちは、元気に生きていたい。
4. してやりたいことがなくなり、生きてる意味も見いだせなくなったら、それは死期だ。
5. 空海や西行、近くは三島由紀夫等を例に引くまでもなく、自ら死期を悟り悠々と死んでいった例は多い。
6. 自殺を賛美するものではないが、マイナスに捉えることも否定する。
7. また、病気を治療するのが本業の医者の管理下で死ぬなどまっぴらごめん。
8. 「東電」とかに決められるのは論外ですよね。
-------------------------------------------------
僕は最近思うのだが、「孤独死」こそ最高の死に様ではないか。
アフリカの象やライオン、野生の動物。
大往生の基本は孤独死ではないか。

死期を悟ったら、1週間も飲まず食わずを続ければ安らかに死ねるのだ。
それも、最初の3日くらい我慢できれば、あとはすうーっと逝ける。
これだね。

要は
 人間引き際が肝心というが、人生の引き際くらいは自分で決める。
のが、かっこいいと思うのだが、いかがでしょうか。
ただし、辞世の句の一つも残しておかないと本当に「孤独死」になってしまう。
朝に「道」を知ったことを示すためにも、一句残しましょう。

僕は楽に死ねる方法を「発見」したことで、老後に対する心配がひとつ減ったような気がします。

子供に自分の老後の面倒を見させるなんて、親として恥ずかしいことだと思う。



2013年3月18日月曜日

淡路の久保さんに会って帰る

実は、指宿の次は再び阿蘇に寄って、ファームランドに一泊し、できれば経営者の方にお会いしていろいろお話を聞かせていただこうと道中計画を立てていたのですが、果たせずに帰ることになってしまいました。
鹿児島市に近づくと下のような街路樹が目につきました。
つい、アフリカのバオバブの木を思い出してしまいました。(写真下)



これが本州へ渡る関門橋です。


途中、久保さんに宿の手配をお願いしたので、今日はできるだけ早い時間に淡路に着かなければなりません。ただひた走りに走りました。
広島を通過したところで、福島出発以来3000kmをカウントしました。
倉敷通過中に夕暮れになりました。
僕たちは児島坂出ルートから四国入りし、鳴門大橋をわたって北淡路に向かうことにしました。

夜9時すぎ、やっとホテル到着です。
僕たちにはもったいないようなホテルでした。
久保さんありがとう。


夜は三人で旧交を叙し、近況を交換し、僕たちは阿蘇でふつふつと湧いてきたアイデアについて語り合いました。





翌日は久保さんのにんにく畑に案内していただきました。

にんにくの他に、玉ねぎや金ごま、そのほかいくつかの栽培を準備しているということでした。
久保さんは、放射能被害の福島市から自主避難してこの地に辿り着き、ようやく農業生産を始めようというところです。
過日の読売新聞に彼のことが掲載されています。
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/kansai1308155431752_02/news/20130206-OYT8T00147.htm



久保さん(左)と菅野さんです。
僕たち3人は、事情はそれぞれ違うけど「福島の避難者」仲間です。


僕たちは、福島にあり阿蘇ファームランドのような保養リゾートを一緒に作りたいね、と話し合いました。

この日、菅野さんと僕は福島に向かって一直線、帰途についたのです。
上越市付近では、既に走行距離が4000kmになっていました。

9日間の旅はようやく終わりました。
-------------------------------------------------

次回からは、福島版ファームランドの構想について書き出すことができればいいなと思っています。


2013年3月14日木曜日

大隅から指宿へ

福島から西都市まで行程は2000kmになっていた。
6日目である。

実は、出発時の2月15日には、「1週間か10日かな?」 と妻? に言って出た。
途中から、2月いっぱい!!! に変更になったのだが、そのことは知らせていない。

とにかく今日はなんとしても指宿まで行く。
フェリーの時刻も調べた。

宮崎に来たら、シーガイアくらいは見ておくべきだろうということで、向かったら、例の侍ジャパンやら読売ジャイアンツ軍のキャンプしている宮崎球場の前を通った。


さらに進むと、巨人軍の宿泊所を通り過ぎた。
ちなみに、シーガイアはソフトバンクの選手村になっていた。


シーガイアを通り過ぎると、新婚さん憧れの青島だ。
小さな島巡りのスクーターが待っていた。
無論僕らはお呼びでないし。


青島からシーガイアはすぐ近くに見える。


今日の僕たちの最大の関心事は、「何時に指宿に着けるのか」だ。
都城の駄々広い平地を通り過ぎ、大隅半島をひたすら南下する。
途中、どこで昼飯を食って、何を見てきたのかすら覚えていないくらいだ。

都城から根占港までは結構ある。
でも、揖宿行最終便には余裕で間に合った。
流石に九州も最南端まで来たものである。
道端では菜の花と桜が咲き競っていた。


目指すは対岸に開聞岳がそそり立って見える薩摩半島は指宿温泉。
僕たちはようやくたどり着けるのだ。砂蒸しも入りたいし・・・。
行く手の太陽が眩しい。


湾内から北に目をやると、桜島が噴煙をたなびかせていた。
大隅半島の道中、中国からのPM2.5のせいかなと思っていたのは、当然、この噴煙のせいであった。噂には聞いていたが、すごいものである。


指宿に近づくと、海浜集落からはごらんのように煙がたなびいている。
これは、鰹節工場のものと思われます。


最南の地でふたたび焼肉食べようということになり、ホテルの近くに焼肉屋さんを見つけてそこに入った。
新潟の家内に居場所報告をしたらメールが帰ってきた。
「こちらは今日だけで1mも雪が降ってひどく難儀しているのに、あなたは南国で焼肉ですか。離婚しましょ!!!」

さあ、それから大騒ぎです。
菅野さんは、すぐに飛行機で帰るとか、とにかく旅行を引き上げるべきだと言います。
僕は「だいじょうぶだよ」と言います。

いずれにせよ、もう砂蒸しどころの状態ではありません。


翌朝になり、結局二人で淡路島の久保さんに会ってから帰ることに決まりました。
これから2千km、大返しの始まりでした。



高千穂---神話の里

竹田市から高千穂に向かう道路は狭い山道である。雪道注意だが、携帯電話は使えるらしい。


高千穂でまず目についたのがトンネルの駅。
昔は鉄道が通っていて、その時のトンネルが地元の醸造元の貯蔵庫になっている。
手前には樽酒、奥の方には瓶も置いてあるそうな。
10年以上寝かせるらしいです。


高千穂に行ったら誰でも見てこなければならないのが、真名井の滝。
向こうの橋から回ってカメラを構えたら、Σ(゚д゚lll)
なんと、滝の色がこのように美しく・・・・
素晴らしい。


帰りは当然天の岩戸を見てこなければと思い、タヂカラオノミコトが大岩、天戸開きをしている天の岩戸を見てこなくっちゃ。


ただし、アナテラスがお隠れになった天の岩戸は、非公開で、我々が見ることができるのは、アマテラスをなんとかこの世に戻そうと、神々が談合したと言われる岩屋である。
ナルホドナルホド


 この日は神々の住まう高千穂をめぐっての一日が心地よく過ぎていった。
神々のふるさとは、未だに神々が住んでいるかのようであった。
僕たちは西都市まで降りてきて宿をとることにした。

聞くと、西都市にはホテルは一軒しかないそうな・・・。
部屋は取れた。
来てみたら、折しも野球球団やサッカーチームが宮崎でキャンプの真っ最中。
このホテルにも、どこかのサッカーチームが合宿していた。


2013年3月8日金曜日

衝撃の阿蘇ファームランド

旅行は既に4日目です。
下関から九州に渡るため、古いながら関門トンネルを通ることにしました。
九州に着いてから、改めて「どこに行こうか」ということになり、当初は各県1日当てればいいとの考えから行先未定だったのですが、急遽「阿蘇」に行こうということになりました。全くいい加減なものです。

阿蘇に行くためには熊本から登るのが良いということで、阿蘇道路の入口にある道の駅大津に立ち寄ることにしました。


折しも2月中旬は果物の宝庫熊本のまさに旬の季節。
その中でもあまーい甘いデコポンがありました有りました。
僕はひと箱買って新潟に送りました。
菅野さんはなんか大量に買い込んでいました。
とにかく甘くて美味しいのです。

ところで、段々昼ごはん時が近づいてきて、どこかで焼肉でも食べようかな・・・・
道路端に「阿蘇ファームランド」なる看板があったので、そこならきっと焼肉にありつけるはず、、、早速電話番号を調べて連絡したらオーケーとのこと。
よし!!!  3束本場九州の肉が食えるぞーーー!!

阿蘇ファームランドはこんなところでした。思ったよりでかーい施設のようです。
以下、この施設の説明には、当該ホームページに掲載されている写真を借用しました。
http://www.asofarmland.co.jp/index.php


来てみてびっくりです。
はじめは宿泊者専用駐車場に入ってしまい、レストランの入口を教えてもらい、阿蘇きのこ亭の駐車場に行きました。でも、きのこ亭でやっているのはステーキとかで、焼肉ではありません。
聞くと、ショッピングゾーンや体験ゾーン、温泉施設などなどをはるかに歩き、宿泊フロント近くのレストラン棟まで歩く羽目になりました。

途中様々なゾーンを通り抜けて焼肉ハウスにたどり着いたときは、二人して口をあんぐり開けていました。

ちなみに宿泊ゾーンは下の写真のようなドーム型の宿泊施設が無数に立っています。


温泉施設入り口はこんな感じです。

こちらが、阿蘇きのこ亭入口です。


ようやくたどり着いた焼肉です。牛、豚、鶏の三種のお肉と野菜をジンギスカンなー゜風の特製鍋で煮焼きしていただくのです。
鍋の真ん中が盛り上がっていて、お肉はここで焼きます、
その周りにお好みのスープを入れて野菜を煮炊きします。
これが絶品なんだなぁ。
阿蘇に来てほんとによかった。

そして、ここから物語が始まりました。



ここのレストランは、写真のような和風スタイルと、右に写っているらしい洋風のエリアがあります。
とっても広くて、清潔です。
僕たちは時ならぬ客だったらしく、(ラストオーダーの30分前に到着)ほかにお客さんはいませんでした。この写真はホームページから借用しています。

「福島にもこんな施設が欲しい」

どちらからともなくそんな気持ちが湧いてきました。
三種の焼肉を美味しく頂いたあとで、詳しいパンフレットをいただくことにしました。
しかも、、、ちょうど1冊レジ付近にあった。!!!!


阿蘇ファームランドでは、自家製の清潔な野菜やきのこ類を栽培し、宿泊客やレストランなどに提供しています。
そして、何よりも健康をテーマとした施設が充実しています。
食べるものだけではないです。
配置図にも載っているように、温泉や運動施設、健康アドバイザーの配置などとにかくたくさんあります。


野菜やきのこは、完全に衛生的な設備で栽培されています。下の写真はきのこプラント内部の写真だそうです。
素晴らしい。



とまあ、福島にこのような施設ができたら福島県人はもちろん、東京方面の人たちも、いや世界中から人々が集まって、放射能や健康の心配のない、広々、のびのび、さらに心のケアまで出来る場所があったらどんなに素晴らしいことか。

僕たちの旅は、きっとここからスタートするのかもしれない。
これから数日の旅は何かというとこの話題が中心になっていった。

(思考は伝播するというが、この数日後、帰りの車の中に1本の電話が飛び込んだ・・・。 福島県の農政関係の部門からである。
「放射線フリーの野菜栽培施設を南相馬に作って実験したいのだけど、関係者に聞いたら夢農園の菅野さんが適任だと言われたので・・・」
僕たちの思考の一部は確かに伝わっていた。
この夢は必ず実現しなければ・・・・・そんな思いが湧いてきた。)

----------------------------------------
僕たちは、この日は竹田市に泊まることにして、阿蘇の山をあとにした。
僕の阿蘇山のイメージは「火山」なのだが、いやはやだだっ広いところである。
冬枯れの牧草地が果てしなく続いている。
折からの濃霧で、一層幻想的な風景を見せている。



はるか阿蘇をあとにして山を降りると、清流と石文化の街竹田市だ。
いたるところにこのような石橋が存在する。
小野医師はその溶岩が原料である。
もちろん川床も溶岩で出来ている。


かつて、1990年にはこの街を写真のような大土石流に襲われた街だ。


大自然は時として人間が営々として築きあげてきたものを容赦なく破壊する。
水害から25年、街並みは昔の繁栄期を取り戻したかに見える。
災害は恐ろしい。
しかし、人間だって決して負けちゃいないんだぞ。





この夜は竹田の街に出て、酒を飲んで乾杯した。

ひとつは、町々の完全な復興を祈念して。
もう一つは、人々が心から安らげる場所を得られることを祈って・・・。

それから、元気で気のいいあっちゃんにも・・・・・。

竹田市から少し下ったところに、下のような水車が二つ並んでいた。
用水を汲み上げるためのものである。
大水の時は、水車が激しく回転しないように、水は横を素通りさせるようになっていた。