2014年10月29日水曜日

祟り神

世界中で、「神」とは祟り神のことを言う。

日本の「神」はよく祟りをなすことはよく知られているが、

最悪の祟り神は、「キリスト教」と言われる、本当は旧約聖書に出てくる「神」であろう。

何しろ、自分を「神」と認めない人間はことごとく殺してしまう、残虐極まりない「神」なのだから。

旧約聖書はイスラム教でも「聖典」だそうな。

エゴが強すぎると人間社会では嫌われることが多いが、それが最も強いのが「神」、「神々」のようだ。

そして、そんな「神」、「神々」になってしまったのが「アメリカ」という国。

最近の「日本」も負けてはいないね。

2014年10月14日火曜日

崇峻の陰謀①

天皇とは祟り神の一族なのだろうか。
この物語は、日本天皇史上初めて、そして最後の、臣下に暗殺されたといわれる崇峻天皇の物語である。
しかし、実は崇峻は殺されてはいなかった…
物語は、古代史と考古学が初めて一致したとみられる大王ワカタケルから始まる。

ここに一人の強力な祟り神がいた。
彼は生まれながらにして周辺に存在する人間、兄弟、家臣その他多くの人々に理由なく祟りを起こした。いや、理由はある。
人はそれを権力欲とも生存本能ともいう。
どちらでもよい。
それが歴史なのだから。
まずは日本書紀の記述を眺めてみることにする。


日本書紀 第14章 雄略天皇 大泊瀬稚武天皇
 
図はWiki雄略天皇より借用


1.     眉輪王の父の敵

穴穂皇子が皇位に就かれ安康天皇となり、都を大和石上に移されたころの話である。

大泊瀬稚武皇子は反正天皇の娘たちをわがものにしようとされた。
   娘たちはこれを聞いて、
「あの方は恐ろしいお方。夕べにお目にかかっても、翌朝には殺されかねません。いやです。」
といって皆身を隠して逃げてしまった。
   
安康元年春2月1日。
   安康天皇は大泊瀬稚武皇子のために大草香皇子の妹幡梭皇女を嫁がせたいと、根使主(根臣)を遣わして大草香皇子に頼まれた。
   大草香皇子はたいそう喜んで、家宝の押木の球蔓を返礼として渡した。
   ところが、この根使主はこの押木の球蔓欲しさに悪だくみをしたという。
   「大草香皇子は勅命に従わず、『妹を妃に入れることはできない』と申しています。」
と、安康天皇に復命したものだからたまらない。
   安康天皇はかんかんに怒って、大草香皇子を攻め殺してしまった。 
   こうして押木の球蔓は根使主の物となった。
  
 そして、なんと大草香皇子の妻中蒂姫は妃として安康天皇の宮中に入れられ、大草香皇子の妹幡梭皇女は大泊瀬稚武皇子に娶あわされた。

中蒂姫はひどく寵愛され、皇后に遇された。
中蒂姫はすでに大草香皇子との間に眉輪王を生んでいたが、母子ともに宮中で溺愛されることになる。

        そもそも穴穂皇子(安康天皇)は大草香皇子の妻中蒂姫に横恋慕していたのだろう。大草香抹殺の結果、女は皇子の物に、宝は根臣の物になった。
        
        穴穂皇子が皇位を継承した事情も振るっていた。
そもそも允恭天皇の皇太子は木梨軽皇子であったが、木梨軽皇子は妹の軽大娘皇女を犯すほど淫乱であったことを理由に、穴穂皇子に滅ぼされているのである。      
 (古事記によれば、木梨軽皇子は伊予の温泉に流刑になった。妹の軽大娘皇女は衣通姫といわれ、その肌の輝きが衣を透き通って見えるほどの女性だった。結局二人は流刑地で心中して果てたという。)

   大泊瀬稚武皇子は允恭天皇の第5子である。
   安康天皇は第2子であるから、ワカタケルは弟ということになる。
   権力と女子を求める強欲は兄をはるかに凌駕している。

彼が生まれた時、神々しい光が御殿に充ちた。
成長につれ、人に抜きん出て逞しさを増していったという。


  安康大王3年8月、安康天皇が山の宮に温泉を楽しみに出かけられ、宴会を催してくつろいでいた時、天皇は皇后に
「私は汝が愛おしくてならぬが、汝の連れ子の眉輪王がこわい末恐ろしい。何しろ彼にとって俺は父の敵だからな。」
とつい口を滑らしてしまったという。
眉輪王はまだ幼少7歳ではあったが、その物語を全部聞いていた。
天皇がいい気持になって皇后の膝枕で転寝を始めたところ、王は遂に安康天皇を刺し殺してしまったのだという。

眉輪王による大草香皇子の「仇討」といわれるが、皇后中蒂姫にとっても同様仇であった。この親子は敵討ちの機会を日ごろから狙っていたのだ。
もっと言えば、二人を唆した者、真の下手人がいるのかもしれない。
それが大泊瀬稚武皇子ではなかったと誰が言えるであろうか。
のちに皇后となる草香幡梭姫皇女は大草香皇子の妹であり、彼女にとって安康天皇は兄の仇でもある。
草香幡梭姫皇女と大泊瀬稚武皇子、皇后中蒂姫が結託して犯行に及んだというのが真相ではなかろうか。

 安康天皇暗殺の報を受けた大泊瀬稚武皇子はまず自分の兄弟たちを始末する。
 皇子の行動は早かった。
 この機会を準備し、待っていたのだ。
 
 最初に兄の八釣白彦皇子を自ら切る。
次に坂合黒彦皇子も問い詰め、眉輪王ともども殺そうとする。
危機を感じた皇子と眉輪王は葛城王円大臣の家に逃げる。
大泊瀬稚武皇子は、円大臣が皇子と王の引渡しを拒んだために、家に火をつけて焼き、皆殺しにしてしまった。
 
1. 市辺押磐皇子も謀殺
 市辺押磐皇子はかつて安康天皇によって皇位継承者に指名されたことがあった。
 目の上のたんこぶである。
 冬10月1日、大泊瀬稚武皇子は市辺押磐皇子を狩りに誘った。そして鹿と間違えたふりをして皇子を射殺した。
 皇子の供の物が右往左往しているのを見てこれも皆殺しにしてしまった。
 さらに、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子も伏兵に捕らえられて処刑された。

1.      即位と諸妃
  こうして邪魔者を成敗し、11月13日皇位についた。
  雄略天皇である。
           
葛城円大臣に代わり、平群臣真鳥が大臣に、
 大伴連室屋、物部連目が大連となった。
 この3人が皇位承継の功労者ということである。

 さて、天皇は皇后と妃を迎える。
 
 元年春3月3日 皇后として草香幡梭姫皇女
 この月
妃として葛城円大臣の女 韓姫
  これは、のちの清明天皇と稚足姫皇女を生んだ
  葛城円大臣は眉輪王とともに天皇に殺されている。
妃として吉備上道臣の女 稚姫
  これは、磐城皇子、星川稚宮皇子を生んだ
  吉備上道臣と稚姫の子たちである。
  吉備上道臣田狭が盛んに女房(稚姫)自慢をするので、その稚姫が欲しくなり、田狭を朝鮮半島の任那に転勤させて寝取ったのである。

  同じく「女」と書いても、葛城円大臣の女 韓姫は大臣の娘であり、吉備上道臣の女 稚姫の場合は臣の奥方である。
  いずれにしても、無理やり奪い取るのが流儀らしい。

妃として春日の和珥臣深目の女 童女君
  これは春日大娘皇女を生んだ

  童女君が妃になった事には次のような逸話が残されている。
  童女君はかつて采女であったのだが、天皇に見初められ一晩寝ただけで孕んでしまったという。
  やがて女子が誕生した。春日大娘皇女である。
  この子が歩けるようになった時、物部目大連が
  「この子は天皇似ですなあ」
と言った。天皇は疑った。
「一晩だけで孕む訳がない。」
しかし、追求されてみるとちゃっかりと7回もやっていたことを自白。
天皇はしっかり数えていたのだった。
  
  2年秋7月には新たな妃を巡って、こんな事件も起こっている。

    天皇が宮中に迎えようとしていた池津姫である。
    百済に新王蓋鹵(21代ガイロ王 在位455-475)が即位し、天皇は祝いに美女を献上させた。この美女が池津姫である。
その池津姫があろうことか石川楯という者と情を通じてしまったのだ。
天皇は怒り狂い、大伴大連室屋に命じて夫婦を木に張り付け、桟橋の上で焼き殺してしまった。
 

2014年10月12日日曜日

日本の臣道(1)

この夏、西尾幹二氏の「天皇と原爆」が新潮文庫から出版された。
内容はとても有意義で、括目させられる識見が満載であった。

ここで、「神の国アメリカ」という概念が非常に重要なのだが、この本でも紹介されている和辻哲郎の本が市販本になく、わずかに国会図書館でデジタル化されていたので、自分なりに現代の仮名遣いに直してみた。戦時中の国民文庫なので、そのつもりで読む必要はあります。

以下、10数回になると思うが、紹介したい。
段落も同じにしたので読みにくいとは思いますが、堪忍してください。

和辻哲郎著
筑摩書房 昭和19年刊  戦時国民文庫所蔵
国立国会図書館 近代デジタルライブラリー より






(以下直訳です)


目次
日本の臣道
アメリカの国民性
1.     アメリカ国民性としてのアングロ・サクソン的性格
2.     アメリカへの移住
3.     アメリカにおけるホッブス的性格の展開
4.     アメリカにおけるベーコン的性格の展開
5.     開拓者的性格


[日本の臣道]

臣道について我々の祖先がどういうことを考えどういうことを申していたかを省みまして、それを簡単に述べてみたいと思います。
話の緒と致しまして、近頃軍人精神につき海軍の方が説明されました言葉をここに拝借したいと思います。それは昨年の18日の平出大佐の放送演説の中にある言葉であります。『大君の御為には喜んで死のう』というのは軍人精神を体得する初歩の段階である。やがてその体得が深まってくると、『敵を倒すまでは決して死んではならぬ』という烈々たる戦闘意識を信念的にもつようになる。これが海軍の伝統的精神である。というのであります。この言葉は非常に重要な意義を含んでいる、と私は考えます。大君の御為に身命を捧げるという覚悟は、それだけでも立派なものでありますが、しかしまだ自分の身命にこだわっている。自分の身命を捨てるということをさも大事件のように考えている趣がある。それではまだ十分でないのであります。自分が生きるか死ぬかということは、そんな大事件ではない。自分の担っている任務のほうが自分の命などよりは比べものにならぬほど重い。その思い任務の達成を中心にして考えると、自分の死ぬことなどにこだわるのはまだ『私』を残した立場である。そういう『私』をも滅し去って、ただ任務だけになりきらなくてはならない。これが恐らくあの言葉の意義でありましょう。そう致しますると、これは、古来『死生を超えた立場』と言い慣わしているあの境地なのであります。
このように「死の覚悟」と『死生を超えた立場』とを区別して考えますと、我国中世以来の武士の考え方について理解しやすい点が出てまいると思います。中世以来の武士の習いは主君のために身命を惜しまないという言葉で言い表されました。戦記物などに繰り返して描かれておりまするように、坂東武者は実に潔く命を捨てました。これは確かに讃嘆すべき美風であります。しかしこの際『主君』と言われておりますのは、自分の直接の主人でありまして、高くとも征夷将軍、低い場合は将軍の家臣あるいは家臣の家臣であります。武士たちはこのような主従関係の内部で身命を捨てたのであります。従って敵をやっつけると申しましても、その戦は内乱にすぎませんでした。かかる場合、主人に対する恩愛の情が非常に強烈でありますれば、何のために命を捨てるかという反省は起こりませぬが、一度自分の担っている任務の意義が反省され始めますと、武士たちはその解決に困ったのであります。そこで一方には主従の道を放擲して主人を乗り越えようとする下剋上の傾向が現れてまいりますとともに、他方では身命を捨てることの意義を主従の道よりも深いところに求める傾向が生じました。この後者の傾向からして、あるいは国初以来の尊王の道に目覚め、あるいは仏教の深い理解に到達し、あるいはまた儒教をわが物とするに至ったのであります。これらはいずれも武士たちに死生を超えた立場を自覚せしめたのでありますが、しかしその意味するところは少しずつ異なっております。

話の便宜上まず仏教と結びついた場合を取上げますが、いわゆる鎌倉仏教を作り出した根本の力は武士の不惜身命の立場であります。鎌倉仏教は仏教の日本化に相違ありませんが、しかし日本人はこの時仏教の地盤から世界宗教の代表的な類型を悉く刻み出したのであります。念仏宗に於いてキリスト教的類型を、禅宗に於いて仏教的類型を、法華宗に於いて回教的類型を。これは日本の文化史上相当重大な仕事であります。ところでこの大事業を成し遂げた不惜身命の立場はこの仕事を媒介として死生を超える立場に成熟いたしました。武士たちは自分の身命などと比べものにならない絶対の境地に導き入れられたのであります。特に武士の生活と深く結びついたのは禅宗でありました。それは武士の生活の隅々にまでも浸み込みました。一例を挙げますと、剣の技術であります。剣術は敵を斬伏せる技術でありますから宗教とまるで領分が違うと西洋人なら考えるところでありますが、日本の武士たちは剣の技術の極致を禅宗に於いて体得したのであります。剣禅一致と云われるのがそれであります。自分の命がどうの、敵の命がどうのというような小さい問題ではなく、絶対の境地に突き入ってしまうのであります。勿論これは剣の達人のことであって、誰でもがそのような妙境に達し得たのではないかも知れません。しかし戦国時代の日本の武士の剣術が全体として非常に高い程度に達していたということは認めなくてはならないと思います。
少し枝道に入りますが、この点について一つのエピソードを申し上げましょう。日本人自身は国内だけを見て記録しておりますから、名人を語るときは多数の凡手のあることを前提としておりますが、その凡手といえども、他国人に比すれば段違いに優れていたことを示す事実があるのであります。英国のジョン・デヴィス航海記(Voyages and Works of John Davis)によりますと、1605年の暮にこの有名な航海家をビンタン島付近で殺したのは日本の武士であります。デヴィスはバタニへ行くつもりで風待ちをしていたのでありますが、同様に逆風で帰国できないでいる日本人の船に出逢ったのであります。この船は70㌧位のジャンクで、中に90人の日本武士が乗っていた。その大多数は船乗りとしてはあまりにも立派な堂々とした身なりで、また皆が同輩であるかのように互いの間の行儀作法がいかにも平等であった。話し合ってみるとこれはしな支那やカンボジャの沿岸を荒らす武士たちで、自分たちの船をボルネオの海岸で痛めたために、バタニ人の乗っていた今のジャンクを乗っ取ったとのことであった、などと記されております。デヴィスの船タイガーは240㌧で6吋半の大砲を備えておりますから、見かけた船はすべて捕えて積み荷を調べ、欲しい貨物があれば取上げるのであります。日本人の船もその臨検に逢ったのでありますが、積荷は米ばかりで、しかも湿っている。でデヴィスは支那への航路について知識を得たいとの考えから、貨物は何も取上げずに、鄭重に日本人をかんたい款待した。『しかるにこの悪漢どもは、風向きや運の向きに絶望して即ちこのぼろ船で本国に帰る望みがないので、我船を取るかあるいは死ぬかだと決意した。』これは航海記の記者の解釈であります。貨物も取上げず鄭重にもてなしてやった。即ち何の害も加えなかったのに、刃向って来るとは怪しからん。責任は日本人の側にある。というのでありますが、捕えて臨検した彼らの態度がいかに人を憤慨させたかは反省しないのであります。のみならず款待と称して25-6人の日本人を英船へ呼んだ代わりに、25-6人の英人をジャンクに派して
一日中米の中を捜索させております。米の中に貴重な荷物が隠されていはしないかと疑ったのであります。この際航海記の記者は、デヴィスの失敗として日本人の武器を取上げなかったことを力説しております。英船へ呼んだ方は6人以上に武器を持つことを許さなかった。日本船の方でも、武器を取上げて皆をマストの前に集め、取上げた武器には張り番をつけて米の捜索を始むべきであった。そのことは繰返しデヴィスに注意したのであったが、デヴィスは日本人の謙遜な態度に欺かれてついに武器を取上げなかった。『かくして一日中英人は米の中を探し、日本人はそれを眺めていた。』この油断の間に日本人はすっかり手筈を整えたというのであります。こういう英人の心構えが日本人を真に鄭重に取扱ったものでなかったことは言うまでもありません。一日中米の中を探した英人たちが何物をも見つけ出しえないで日が暮れかかったとき、突如日本人たちが英人を攻撃し始めたのは、如何にも当然であります。さてここで申し上げたいと思うのは、この時の闘争であります。『合図と共に突如日本人はその船にいた英人たちを悉く殺し、また追い払った。』これが日本船上の闘争で、一瞬間に片付きました。しかるに英船上にいた同数の日本人は、それから4時間半戦っております。合図と共に彼らはケビンから打って出ました。ちょうどそこへデヴィスがガンルームから出てきたので、ケビンへ引っ張り込んで簡単に片づけ、放り出しました。そうして中甲板へ出ようとしましたが、上から船員たちが槍で防いで上がらせまいとします。それを手繰り寄せて剣で切ろうと猛烈に追って行きます。かくして半時間近く戦いましたが、日本人は3-4人やられてあと22人はケビンへ退きました。剣を持っていたのは5-6人で、あとは手当たり次第のものを武器としているのです。ケビンでは4時間以上粘り、しばしば夜具その他に火をつけて船を焚こうとしましたので、英人は遂に6吋半の大砲2門に小銃弾、霰弾、クロッスパーなどを込めてケビンに打ち込みました。それで隔壁を打ち砕いて消防を可能にするとともに、21人の日本人を文字通り打ち砕いたのであります。以上二つの船の上の闘争が武道の優劣についてよき比較を与えると思います。双方とも数は25-6人であります。それに対する味方の人数は英人の方がずっと多いのであります。しかも日本船の上では一瞬間に片付き、英船の上では船の危機が起こりそうになりました。事実この事件のために間もなくタイガーは本国へ引き返すことになったのであります。全くの段違いと思われるのであります。名もなき日本武士といえども、他国人に比較した場合にはこれほど程度が違っていたのであります。
なおデヴィス航海記の記者は右の記事の後に、『この闘争の間、彼らは逃れる望み無きに拘らず決して助かろうとはしなかった。この日本人たちのdesperatenessはそんな風であった。』と言っております。この時一人だけは海へ飛び込んだのでありますが、泳ぎ帰って救い上げられ、我々は英船を乗っ取るつもりであったと白状しました。しかしそれ以外には何も言わず、早く殺せという態度をとりました。この日本人の態度、全然命を惜しがらぬ態度を、英人はdesperateと呼ぶのですが、ここにこそ姿勢を超えた立場があるのであります。名もなき日本の武士たちすらも、右のごとくこの立場を我が物としていたのであります。

しかしこの立場におきましては、武士たちは具体的な任務を自覚することはできませんでした。絶対の境地なるものは、具体的な特殊な任務の実現として己を現してくるのでなければ、単に抽象的に過ぎません。その結果、無数の優れた武士たちが国内で互いに殺し合い、国外では無駄死に致しました。そうしてヨーロッパ人よりも2-300年も立遅れることになったのであります。
(つづく)





2014年10月11日土曜日

八百万の神々の時代をふたたび

日本の古墳時代の昔は、八百万の神々が宿っていた。

奈良盆地に都を定めるようになった飛鳥時代、神々は放逐され、仏の道が始まった。
仏道は、硬い鉄器の文明を伴って、青銅の文化を滅ぼし、外来の病気をまき散らした。
「生口」と称する奴隷制度も輸入された。

戦国時代は世界中が戦争をしていた。
日本にも鉄砲が伝来するとともに、切支丹が日本を襲った。
切支丹は戦いの宗教。異教徒を滅ぼし、支配する。
切支丹は銃を携え来たり、富と女を漁った。
伝染病ももたらした。大谷行部はハンセン病、加藤清正は梅毒に冒された。

信長は好いとこ取り(鉄砲)で済ませようとしたが、
鉄砲の代金は金銀・女で支払った。
秀吉はキリシタンのマネして朝鮮半島へ植民戦争、
家康は基督教=征服主義、他教・他民族抹殺主義に恐れをなして、鎖国政策に、
そして神仏混交で基督教に対抗するが、、、

明治維新は基督教に助けられた、基督教的一神教としての天皇教革命であった。
廃仏毀釈をし、神仏分離し、ひたすら天皇を「現人神」と崇め出した。

しかし、他者を排斥し、他者の滅亡を願うのが一神教の真骨頂!!!
自分たちの「神」以外は悪魔だから滅ぼすべき存在と考えるのだ。
映画「創世記」「十戒」「ソドムとゴモラ」「ノア」などの一つでも見ておくことだ。
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昔、卑弥呼は「共立」せられていた。
八百万の神々に支えられていたということだ。

今、再び「共立」の世界観が求められている。







2014年10月7日火曜日

空の4号機燃料貯蔵プールから何を運び出しているのか

「とある原発のメルトスルー」というサイトが今月初めにメルトダウンしたらしい。

メルトダウンの原因は福一4号機の「真実」が原因らしい。

現在、東電と政府は4号機燃料プールから「使用済み燃料棒」を搬出中ということになっているが、実はこれが大嘘であることを指摘したがために、「彼ら」の怒りに触れたようである。

先日は、朝日新聞が従軍慰安婦問題その他でバッシングされ、謝罪に追い込まれたが、「世論」は廃刊まで追い込もうと躍起である。

朝日バッシングの真意は、ひょっとしたらこの記事にあるのかもしれない。

4号機燃料貯蔵プールは実は「空」だった。2011.8.20ごろの朝日の記事より。
よく読むと、そう書いてある。

これも「誤報」??????????????

原発は地震と台風、環境破壊も起こした

めげ『猫』さんの秀逸な記事がある。

「原子力と災害」と題したページであるが、原発と大雨、地震などについて考察している。

原子力発電所は非常に巨大な熱の発生源であり、熱効率は30パーセント。
残った熱、大部分の熱は現地に捨てられている。その影響について述べている。
柏崎刈羽原発の一日分の排熱エネルギーは、なんとM6クラスの地震1個分に相当するのだそうな。

筆者は2011年7月末に福島の友人と近畿旅行に出かけたが、友人が僕の新潟に向かおうとしたその日、大変などしゃ降りに会い、彼は関越も磐越も通行止めの大被害となっていたのだ。
もっとも、これは全原発停止中のこと。

思えば、その昔の8.5水害なども柏崎刈羽原発のなせる業だったのか!!

そして、あの「中越地震」さえも!!!
いや、福島も同程度の巨大原発であった。
福島原発の排熱がどれだけ影響したのかは計り知れない。

それに、原発の排熱エネルギーが地球環境異変、海水温上昇を引き起こしてきたことは確実だろう。二酸化炭素の影響…などというのは地震の鳴動を鼠のちょろちょろに置き換えて誤魔化すようなものだ。

是非、ご一読賜りたい。