以下引用です。
--------かつて、日本は「お金が足りない状態」にありました。つまり「やりたいこと」が多く、「お金が足りないからできない」ということだったのです。
そこで多くの企業が頭を下げて銀行に行き、お金が手に入れば自分がしたことができたのです。
ところが、1990年頃から、日本社会は成熟し、「やりたいこと」が少なくなって「お金」が余ってきました。
「お金が余る」というのも変な話です。多くの人はその日の生活がやっとで、お金が余っているという感覚はないのに、日本全体を見ると、お金が余っているのです。
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ところが、銀行にお金があっても、それを借りる人がいない・・・・・・ここまではおそらく多くの人が同じように考えているでしょう。しかし、その次、私の考えは次のようなものです。
・・・本当は、日本人一人一人が本当に自分が満足するような「豊かな」生活をしているわけではない。それは心だけではなく、物質的にもそうだ。
もし、物質が豊かなら危険な原発などせずに、もっと安心して生活ができるはずだが、少しでも安い電気がいるといって、原発事故が起こった後でも無理矢理、玄海原発を動かそうとしているのだから、心ばかりではなく、物質も豊かではないのだろう。
「お金が余っているのに、危険な原発を動かそうと、やらせメールをする」
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でも、このような状態は、私にはどうしても奇妙に感じられます。
お金が余っているなら、もうなにも要らないのですから、原発を止めて安心した生活をすればよいし、無理矢理、屋根に太陽電池をつけて、高いお金(他人が払う)で電力に買い取ってもらわなくても良いように思います。
しかも、「余っているお金」は「貸すところがない」ので、仕方なく「赤字国債」を発行して、94%が赤字になる国家事業するというのは論理の整合性がありません。
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なぜ、「お金が足りず、お金が余っている」という奇妙な状態が続いているのだろうか?
なぜ、「その「なぜ」が、「なぜ」はっきりしないのだろうか?」
そして、「なぜ、危険とわかったのに、まだ原発を進めたい人がいるのだろうか?」
最後に、「なぜ、こんなに簡単なことが疑問のまま残っているのだろうか?」
それは、おそらく現代の日本は日本人が主人ではなく、どこかに主人がいるからではないかと思います。
このようなことを一つ一つ、解明していかないと、なかなか原発を進めたいという空気を消すことができないと思うからです。
(平成23年7月27日 午後5時 執筆)
武田邦彦
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