2017年9月1日金曜日

日本が8008の島だった頃に思いを寄せて

写真は去年のものですが、本文とは関係ありません。
ただ、僕の視点は後ろの斜塔のように少し曲がっているかもしれません。

さて、
今日、国土地理院地図100万分の⒈日本地図と50万分の⒈地図が届きました。
これによると、標高100メートルまでが緑色、200メートルまでは黄緑色になっています。これらの土地は沖積地層が広がる地域ですが、いわゆる縄文海進とされるところは標高何メートルまでだったのでしょうか。

株式会社アトラスシステムの日本立体地図を見ると、緑色の部分はさらに高い標高のところまで押し寄せており、もし、日本文明の草創期には、いまだ日本列島は今の形を成さず、八千八島の群島状態であったら…、関東平野はいまだ存在せず、琵琶湖は若狭湾から若狭町を経てつながり、大阪湾にかけては広大な海が連なっていた。。。。伊勢湾と琵琶湖の間は関ヶ原で海続きになっていたかもしれず、能登半島は今の佐渡のように孤島であった可能性が高い。

東北山形県に目を転じてみると、月山-朝日連山は島であったかもしれないし、阿武隈山地や北上山地までもが孤島であった可能性を否定できない。少なくとも大きな半島地形であったと想像できるのだ。現に阿武隈山地では、今でも本州各地にいるようなツキノワグマは生息せず、わずかに「橋」を渡って迷い込んできたらしい目撃情報があるのみなのである。

このような時代には、八千八島のわが民族は、船で何処へでも行くことができた。
青森県三内丸山遺跡では糸魚川のヒスイや伊豆の黒曜石などが発掘されているというが、彼らは北アルプスが日本海に落ち込む親不知の果てしない絶海もその他の厳しい海もものともせずに海を渡っていたのは事実であろう。
丸木舟では大岩壁を通過できないなどという説もあるようだが、海のお男に冒険はつきもの。三日四日食わないくらいで、遭難などしてはいられないのだ。

僕は、3年前に買った立体地図を毎日のようにしげしげと眺め、いろんなことを妄想しながら生きている。


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