2010年9月27日月曜日

小手子姫

私の故郷川俣町には、織姫伝説があります。
 聖徳太子の時代、暗殺された崇峻天皇の妃である小手子姫が飛鳥の地を追われて川俣町にたどり着き、養蚕の技術を伝えたという伝説です。

  (たしかに、川俣町の絹織物は、羽二重が有名でした。最も古い日銀福島支店、横浜よりアメリカ情報に近かった原町の無線塔、が物語るように、一昔前までは輸出産業の花形でした。)

  日本書紀では、小手子が天皇の寵愛の衰えたるを憂いてチクったことから蘇我馬子が怒ったということになっていますが、いろいろウラがありそうです。

 朝鮮半島の百済と高句麗の争いが、日本では崇峻天皇と蘇我氏との軋轢を生みました。
 小手子の親は大伴連稲目。大伴家持につながる古代豪族の武門のナンバーワンです。
 崇峻天皇はもともとは蘇我派だったのですが、どこかで百済派の保守派と組んで朝鮮半島での勢力拡大を狙っていたようです。百済は古代天皇家が深くかかわってきた国です。

 蘇我氏は推古天皇や聖徳太子と組み、より中国の勢力範囲に近く、より先進文明をもつ高句麗に近づこうとしていました。蘇我氏は中国の先進技術で近代化を目指したわけです。

 朝鮮半島の百済と高句麗の争いが、日本では崇峻天皇と蘇我氏との軋轢を生みました。
 朝鮮半島はこの当時以前から南北の争いが絶えなかったのです。
 中華の影響圏内である北。中国からみれば辺境の地にあって、独立の立場を貫こうとする南。いまも昔も変わらないですね。

 とにかく、この争いが高じて、崇峻天皇暗殺事件が起こったのです。
 大伴氏は当時隼人や蝦夷の地に広大な領土をもっていましたし、辺境の警護を任されていた一族ですから、崇峻天皇が暗殺されるや大伴稲目は小手子を伴って自らの領地たる東北の地に難を逃れたというわけです。むしろ聖徳太子が彼らを川俣の地に追いやったというほうが正しいと思います。 

 崇峻天皇と小手子の間の子に蜂子皇子というのがいて、この方は山形県に流れて出羽三山を開いたといわれています。
 わが川俣町には小手子に関するものとして、小手郷、女神山をはじめ多くのものが残っています。大伴家の末裔もいるようです。花塚山という山があります。山頂には出羽三山が祭ってあります。会うことかなわない皇子のいる出羽地方を望もうとした場所といわれています。また、ここには放鹿(はなしか)神社というものがあって、奈良の三輪山とかかわりがあるのかな? 小手子が鹿を放したところといわれております。

 私の実家の近くには春日神社がありますが、鹿は春日神社の神獣で、豪族藤原氏の氏神でもありますから、百済系氏族である中臣家ともかかわりがあるかもしれません。

 中臣鎌足は、中大兄皇子と計って蘇我家を滅ぼし、後の藤原一族の繁栄を導いた人です。百済王家の王子であったとも言われていますから、崇峻天皇の陰で動いていたのは確実と思われます。蘇我家と中臣家の確執が生んだ戦いの一つが、崇峻天皇暗殺事件だったのではないでしょうか。この確執は奈良時代終りまで続き、結局藤原氏が覇権を握って平安時代に突入することになります。
 勝った藤原氏が日本書紀を書いて一族の正当性を主張し、負けた大伴氏が万葉集を作って無念をにじませたとも言われています。

  小手子姫はそのような時代に生きた悲しいヒロインのひとりなのです。
 私はそんな町に生まれて育ちました。

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いまの日本も東西の文化圏が違うわけですが、これは百済と高句麗の違いに通じるような気がします。もっと極端にいえば、弥生人と縄文人の違いも同じ構図に思えます。ひょっとしたら石器時代からの違いなのかもしれません。一緒に暮らしながら、お互いに必要としあいながら溶け合うことがない人々。そんな微妙さがこの国にはあるような気がします。

 大阪で酒屋のおやじと一緒に飲んでいた時の話。

 私「関西の言葉には中国語や韓国語起源の言葉がすごく多いことにびっくりしたよ。きっと渡来系の人が多いんだろうね。」
 おやじ「あんたの顔はこのあたりじゃ見かけない人相だ。東国の人の顔は見ればすぐ分かる。縄文人の顔だもの。」

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