2020年5月31日日曜日

斗南藩と寒立馬

先日ご紹介した「寒立馬」
意外と福島から連れて行った馬なのかもしれません。

戊辰戦争後、明治政府に追われた会津藩。

朝敵の汚名を着せられ廃藩となった会津藩。

藩士が御家復興の地と選んだ下北半島には
当時を偲ぶ史跡がいくつか残っています。

下記にその史跡が載せられていました❣️
https://simokita.org/sight/tonami/

2020年5月27日水曜日

東京赤坂今井城跡

東京赤坂の氷川神社⛩付近は、平安末期の武将今井兼平の建てたと言われる今井城跡だ。
 
今井兼平は木曾義仲と共に壮絶な最期を迎えているが、「平家物語」の解説も兼ねてそのうちに触れてみたいです。
お城の概要は次のとおりです。

赤坂今井墳丘墓

誠に勝手なことだが、京丹後に赤坂今井墳丘墓というのがあり、これを我が今井家の「先祖様」に見立てて話を進めたいと思う。すべては僕の「妄想」の中のことなので、不都合な真実は見逃していただいて、妄想に付き合っていただきたいと思う。
妄想の根源は、僕の生まれた住所が「赤坂」にあったから面白いと思ったまでで、特に確たる由緒因縁はない。
墳丘墓の当時、日本は「神話の時代」である。
当時、山陰地方は「出雲の神」の調伏の時代であった。
関東の勢力は香取神宮、鹿島神宮を奉じる人々によって出雲調伏に赴いていた。
これは「大和の神」のご指示によって派遣されたものだ。
出雲を抑えるために、その東端に「北面武士集団である今井家が着任して、出雲監視の任にあたったのである。
当時の交通運搬は河川を重用していて、ここから瀬戸内に出る川の道が発達しており、奈良の大和地方に向かう重要な拠点であった。
今の丹後から加古川に至る川筋を辿っていただくと、容易に道筋が発見できる。
大和政権にとって、丹後の地がどれだけ枢要の位置を占めるか、地図でご確認願いたい。
下記のリンクには赤坂今井墳丘墓について書かれているものです。
このあと、途切れ途切れになるかもしれませんが、僕の「妄想」を折りに触れて辿っていきたいと思います。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/174055